死に行く人は美しいと そう云ったのは果たして誰であったであろうか。 「」 囁くような声色に、私は顔をあげた。手元にあった編み物から視線をずらし、晋さまの瞳を正面から捉える。晋さまは、一度ぱちりと瞬きをなさってから視線を庭のほうへと走らせ、ともすれば掻き消えてしまいそうなほど小さな声で、 「庭が見たい」 そう、ぽつりとおっしゃった。最近はめっきり冷え込んでいたけれども、今朝は輪をかけて寒く、まるで自身が体の芯から凍ってしまうのではないかと危惧するほどであった。朝、新聞を取りに外へ出た時にはもううっすらと雪が地面を覆い始めていたから、もしかしたらもう積もっているかもしれなかった。 「晋さま、お体に触ります」 「気にするな」 「それは、無理な相談でございましょう」 「…」 少し困ったように眉を下げて、晋さまは私をしっかりとお見詰めになった。幼いころからの晋さまの癖である。きっと、お布団にお入りになっていらっしゃらなかったなら小首を傾げなさっていただろう。私がこのお顔に弱いのを、晋さまはわかってやってらっしゃるのだろうか。 「…少しだけですよ」 唇を少々とがらせ、仕方なさげにつぶやいた私に晋さまは微かに笑みを浮かべ、そしてやはり障子へと視線をおやりになるのであった。外が恋しいのであろうか。思い返してみれば、晋さまが最後にお外に出られたのは大分前のことのような気がした。ましてや祖国日本を護るため、攘夷戦争に参加して天人を斬り殺しなさっていた時や、幕府の重鎮相手に斬りかかりなさっていた頃などは、遠い昔のようであった。松下村塾で出会ったころのことは今でさえ鮮明に思い出せるのに、あの、戦争中のことは、ほとんど、まるで霞がかかったように思い出せないのである。そう、まるで記憶に雪が降り積もっているかのように 「晋さま、雪が。」 「…ああ。」 すこし頭を持ち上げなさって、縁側のむこう、小ぢんまりとしながらもなるほど丁寧な作りであるお庭を眺めなさって、それで、ああ、と恍惚としたような溜息を漏らしなさる。やわらかではあるが肌を刺すように冷たい風を感じて、心配になって晋さまの顔をちらとみる。声色の通り、恍惚としたような、まるで天女でも見ているような表情で、晋さまは雪景色をご覧になっていた。やはり、お外が恋しいのであろうか。晋さまの雪のように白いお顔からは何も読み取れない。 「寒くは、ございませんか?」 「ああ。…、」 こっちへこい、とでも言うように眼を動かしなさるので、どうかしたのかと枕元に座った。私の顔をじろじろとご覧になってから、ふとさびしそうに眼を細めなさる。痩せたな。掠れている声で短くそうおっしゃった。 「晋さまには、敵いませんわ」 二日ほど前から、晋さまはお粥どころかスウプすらお飲みにならずに、ただただ冷ましたお茶をコップに半分ほど、お飲みになる。それも、昨日の晩からは咽が痛むとおっしゃってなにも口になさらないので、ガーゼにお茶をひたして時々お口をしめしてあげているのであった。ゆっくりと晋さまがお布団から右手を出しなさって、私の頬へとそえなさる。雪のように冷たい右手が、妙に私を現実に縛り付けている。晋さまの右手は、一週間ほど前から腫れ始めて、一昨日には、まるでいくつも手袋をなさっているかのようであったけれども、昨日のお昼には腫れはおさまり、今度は急激に細く、骨ばっていくのであった。以前、床に伏せる前も骨ばってはいたけれども、これほどまで痩せてはいらっしゃらなかった。 「お前を」 いたずらを考えているようなきらりとした光を瞳に宿らせながら、晋さまはぽつりと言葉を零しなさった。表情は依然として困惑したような、哀しそうなものではあったものの。 「抱いておけば、よかった」 自嘲ともとれる晋さまの言葉は、私のなかのあの時の記憶を引きずりだした。そう、反逆者として各地で暴動などを起しておられたとき、晋さまはしょっちゅう花街へとお出かけなさっていた。あまりに頻繁に足を運びなさるので、誰かひとり、正妻とはいかずとも、女性を船に招いてはいかがですかと申し上げたところ、晋さまは、それはそれは厳しい顔をして「だめだ。」と一言そうおっしゃったのであった。自身が狙われているのをわかっていて尚、他の人間を巻き込むことなど、お優しい晋さまにはできなかったのでございましょう。それで、やはり、晋さまは一人で夜の花街へと消えて行きなさる。身近のものとの関係は、できるだけ稀薄であろうという考えは、晋さまの尊い魂の優しさなのである。 「俺は、」 「はい。」 「俺は、ひどく、後悔するときが、ある」 自分の歩んできた道が、本当に、正しかったのかどうか。掻き消えそうなほどちいさな声で、晋さまはそうおっしゃった。晋さまの瞳が揺れる。嗚呼、なんて美しい魂をお持ちなのだろうか、この方は。 「お前は、気づいていたかも、しれないが」 「…ええ」 決まって、大きなお仕事をなさる前日には、晋さまは晩酌に私をおよびになった。会話をするわけでも、接吻や、肌を重ねるなど、色事などもこれっぽっちもなさらずに、ただ無言でお酒をお呑みになるのだ。それは、翌日に控えた大事の興奮を抑えるためだとは到底思えず、むしろ、胎のなかでのたうち回っているなにかを抑え込むような、そんな感覚を私に与えていたのであった。 「万斉さまも、うすうすお気づきになっていたのではありませんか?」 「そうだな…アイツは鋭いからな。」 くえねぇ奴だ。満足そうに晋さまは微笑みなさる。晋さまは万斉さまを、信頼、してらっしゃるのだ。万斉さまもそれを存じ上げなさっていて、そして、二人の信頼関係は、二人が違う道を歩むようになろうとも、決して、成り立たなくなるようなものではないのである。 「、」 「はい。」 「知ってるか?」 冬が好きな人間は、冬に死ぬ。 先ほどの満足そうな笑みのまま晋さまは仰った。ぴくり。私の口唇が一度わなないた。鋭い晋さまは、もしかしたらお気付きになられたのかもしれない。変わらず笑みをかたどったままの唇で、「どうおもう」そうお聞きになった。 「それならわたくし、季節ごとに死なねばなりませんわ」 慈愛に満ちた春、逞しい夏、凛とした秋、荘厳なる冬。どれも優劣つけがたいものである。そういえば、源氏物語でも同じように女御達が春夏秋冬どれが優れているか比べてはいなかったであろうか。結局、勝敗はついたのだったか。 「俺ァ、」 そう言ってから晋さまは考え込むように口を噤みなさった。長い指を口元で遊ばせなさるのは、晋さまが思案なさっているときの癖であった。うたを詠む時など、筆を手にとっていらっしゃる時は筆がその指の役割をしていた。そうして、なにかまとまったのであろう。すこし薄い唇を開いて、おっしゃる。 「春に死ぬだろうな。」 「はる、ですか?」 少し意外であった。晋さまは秋か、もしくは冬がお好きであるのとばかり思っていた。うたをお詠みになるのも、春よりもむしろ秋のほうが多かったような気がしたのもある。晋さまは、そんな困惑した私の顔を覗き込んで、眼を細めて優しく笑いなさった。 「春は、、お前だ」 ふわりと雪とともに吹き込んできた風は、なぜか冷たくはなく、むしろ春の霞のように私と晋さまを包み込んだのでした。ぽとり。雪に交じって生温かい雫が晋さまの布団に落ちる。もう一度ふわりと風が吹いて。舞い踊る雪を見ながら、感嘆とした声で晋さまはおっしゃった。 「さくらに、似ているとは思わねェか」 それきり、晋さまが口を開くことはなかった。ぽとり、ぽとり。雫はとめどなく落ちていく。そのまわりを、雪が、ちらりちらりと舞って、まるで、桜が涙しているかのようだった。 ああ、彼にはもう春しかみえていない。 |