己れは、肚の中に魔を飼っているのやも知れぬ。 「銀ちゃん 銀ちゃん」 舌っ足らずなその声で、名前を呼ばれるのが好きだった。短い足を必死に動かして、俺の後をついてくるが好きだった。「。」名前を呼べば満面の笑みを浮かべる。俺だけに向けられる笑顔は酷く俺を安心させ、それと同時に云い様のない優越感を、俺に齎していた。 嗚呼、魔物が肥え太る。 は松陽先生が連れてきた、いわゆる孤児だった。俺のようにどこからか拾ってきたのかもしれなかったが、初めて見た時から小奇麗な格好だったため、俺は親に捨てられたのではないかと踏んでいる。捨てられていたのか、あるいは押し付けられたのか。飛び抜けて教養があるわけではなかったが、それでもそれなりのことは身につけていたようなので、もしかしたら商人、もしくは武家なんかの娘だったのかもしれない。没落していった家系はいくつもあるから、もその一人なのではないか。それらはすべて俺の予想の範疇を出ていはいない。しかし、そんな疑問は俺の、誰からの、口からも問われることはなかった。 何も云わないならば、なにも訊くな。 此処の暗黙の了解はの時にも例外なく適用された。誰も何も口にせず、温かくを迎え入れた。冬も終わりにさしかかった頃であった。 塾内でも最年少のは、他の生徒達に可愛がられていた。しかし、可愛がられているという実感が、にはなかったであろう。何故なら、は一人で他人と話すことができなかったからだ。 「親と離れてしまった衝撃がおおきかったのでしょう。」あの子はまだ小さいですからね。松陽先生は、困ったようにぽつりと零した。西日が差しこむ先生の私室でのことだった。 「銀時にはなついているようですね。」 「はい。…でも、俺、なにも、」 「銀時の、その心の内を、自ら感じ取ったのでしょうね。」 甘やかしすぎるのはいけませんが、何分彼女はまだ小さい。あなたが傍にいてあげなさい。 そう、は俺か松陽先生が傍にいないと、他人と話すことはおろか目さえ合わすことができなかったのだ。何故俺なのか。は先生に引き取ってもらったわけだから、先生に懐くのは納得できる。では、何故、俺が。そんな疑問も、が一言「銀ちゃん。」と、そう呟けばすべて弾けてしまった。は俺に心を許している。それに何の不都合などあろうか。「。」呟けば、頬笑みが返ってくる。はじめて、にんげんをいとしいとおもった。 それが、どこから、どうして、間違ってしまったのか。 「松陽せんせい」 先生を呼ぶ時のの声は高くなる。松陽先生の着物の裾を掴んで、必死で何事か喋っているのを遠目に見ながら、俺は何故か自分が妙に冷めていくのを感じた。きらきらと目を輝かせながら、本人なりの早口で言葉を紡いでいる。それに比例して、俺の中で黒い何かが渦巻いて、暴れだす。捌け口を求めるかのようなそれに嫌悪感を覚えながらも、震える拳をさらに強く握るしかなかった。「、」思わず呼んだ名前。掠れたその声をは聞き取ったのであろうか。ちらとこちらを向いて、先生に視線を戻し、一言二言なにか告げ、そうしてからこちらへ走ってきた。「銀ちゃん」甘ったるい声で囁かれて、おもわず息を吐き出すのを忘れるところだった。くりくりとまんまるの瞳が、俺を見上げている。俺を信頼しきって、俺にすべてをゆだねてしまいそうな瞳。純粋なそれに、考えられないほどの充足感を覚え、くらりと眩暈。それと同時に、黒い何かがのた打ち回る。「銀ちゃん?」そんな俺を不思議に思ったのであろうが、いつものように俺の服を握ろうと手を伸ばす。反射的に、俺は、その手を振り払った。 「え…っ?」 困惑した表情を見せるに俺は追い打ちをかけるように冷たく言い放った。 「さわんな。」 嗚呼、その時のの顔を俺は一生忘れないだろう。 目をいっぱいに見開いて、信じられないものをみるかのように俺を見つめるその瞳。傷つき、泣き出しそうなそれにぞくりと俺の背筋が粟立った。快感、そう呼ぶに相応しいそれはるで麻薬のように俺の中を駆け巡る。ああ、そうだ、こいつにこんな表情をさせられるのは俺しかいないのだ。歪んだそれは酷い恍惚感に直結する。 「せんせいのところにいたんだろ。」 「ぎ、んちゃ…」 「別に呼んでねぇし、おれのとこに来なくてもいーだろ」 見開かれた瞳に透明の涙がたまっていく。それがまた俺に快感を与えているのを、は気づいていないのだろう。に冷たい言葉を浴びせかけるたびに頭の芯が甘く痺れ、ふわりふわりと体が宙に浮いているようであった。ぽろり。ついにの瞳から涙が零れ落ちる。ゆっくりとそれを拭ってやると、ぴくりとの肩が跳ねた。 「ぎ、銀、ちゃん、」 「…。」 涙を拭った手で、頭を撫でてやった。また大げさにびくりと反応してから、おそるおそるは俺の顔を覗き込んだ。睫毛を湿らす雫がまばたきをするたびにきらりきらりとひかる。おびえたようなその瞳が俺をとらえて離さない。 「ごめんな、痛かったか?」 「へ、へーき」 おどおどした様子で声を洩らすに自然と笑みがこぼれた。ああ、は、というにんげんは、俺のたったあれだけの行動で泣いてしまうほど、 「なー、あっちでふたりで遊ぼうぜ!」 笑みを隠す必要がどこにあるだろう。満面の笑みを浮かべて手を取ればワンテンポ遅れてもほころんだ。笑んだ拍子に零れた最後の涙を拭ってやる。それは不思議と熱をもっていた。ちっこいのてのひらを握って走り出す。 たいせつな、たいせつな、おれのかわいいいきもの。よわっちくて、しぬほどいとしいこいつに抱く感情の名を、俺は知らない。 「、おはよう」 「お、おは、よう…桂くん」 三か月もたったわりに、は未だ他人と十分な会話を交わすことさえできていなかった。当初の様子から名前を呼べるようになっただけでも大した進歩なのかもしれない。が皆と打ち解けるとはいかずとも、会話ができるようになって、松陽先生は非常に喜んだ。俺も喜んだが、相も変わらず肚の中では何かがのたうちまわっている。わかっている。にとって、ここで極度の対人恐怖症を直す必要があることなど、自明の理であった。俺や松陽先生がいない場所で他人と会話ができない。こんな時代に、そんなが、ひとりで生きていけるはずもない。それを危惧していた松陽先生は、最近やっとが生徒たちの名前を呼ぶようになったのを非常に喜んだのだった。 「おっす!」 「おはよ、う、久米くん」 消え入るような声も、の声なら相手に届いてしまうのだから不思議だ。そこでも俺は張り合いのない優越感を心の中で振りかざす。甘ったるいあの声は俺だけのものだった。 「…よぉ」 「っ、た、かすぎ、く、ん」 高杉が眉を顰めると、びくりとは肩を揺らす。毎朝のことであった。どうやら、は高杉という人間に苦手意識を抱いているらしい。ただ苦手なだけなのか、本当に怖がっているのかは定かではなかったが、俺が知る限り一度として「高杉くん」と吃ることなく言えたことはない。高杉もそれを気にしているのは明白であった。だから、毎日毎日飽きもせずわざわざに挨拶をするのである。 「今日あちーな」 「っう、うん」 「昨日の夜は寒かったのにな」 「そ、そう、だ、ね」 ぎこちない相槌。毎日続くそれに飽きることなく、高杉は今日も他愛のない話をとする。高杉が一方的に話しかけているだけなのだが、それでもアイツは満足らしい。満足そうに前に向きなおり、机に突っ伏す高杉は、どうやら先生が来るまで寝るつもりのようだ。無造作に跳ねている黒髪を、俺は後ろから睨みつけた。またどす黒い何かが肚のなかでのたうちまわっているのを感じながら、 「。」 「なぁに?銀ちゃん」 ふわりとの笑みに呼応するように それ はスッと空気に溶けていった。にこりとわらうに俺は口の端を釣り上げる。きっと醜いであろうその笑みに、が気づいたことは一度もない。 「あー今日あっちーな。お前髪長くてあつくねーの?」 「ううん、へーきだよ。」 「さらっさらだよなぁお前の髪」 「は、銀ちゃんの髪の方が好きだなぁ」 先ほどのた打ち回っていた黒い何かは完全に姿を隠し、冷え切った頭の芯はとろけるように甘く痺れていた。 なあ高杉、聞いてるか? 笑い出しそうになるのを必死で抑えながら、俺はの髪を優しく梳く。吃りないと話せるのも、の髪を自由に梳けるのも、生徒の中では俺、だけ。ちまっこい手をのばして、はゆっくりと俺の髪に触れる。胸の奥がずくんと疼いた。ああ、きっとこの手を叩いたら、またはあの泣きそうな表情を見せるのだろうか。それとも、大きな瞳から透明な雫をぽろぽろと零し、声もなく泣いてしまうのだろうか。そればかりが脳を駆け巡り、髪を梳いていた右手がぴくりと震えた。好きな子ほどいじめたい、なんてレベルじゃない。そんなかわいいものじゃない。傷つけて、傷つけて、傷つけて傷つけて傷つけて。ぼろぼろになってしまえばいい。そうして無数にできた切り疵を、俺は丁寧に舐めて治してやるのだ。痕なんてなんて残らないように、念入りに。酷く滑稽で独りよがりなその快楽が、俺を捕えて離さない。 「―?――!」 さして広くもないこの屋敷も、子供である俺からしてみれば十分な広さを持っていた。ましてや、探しているは俺よりもさらに小さいのである。そのを見つけなければならないのだから、そりゃあ時間もかかる。かれこれ10分以上、俺はの名前を呼び続けていた。 「ちょっとやりすぎたよなぁ…。」 数分前の行動を、俺は珍しく悔いていた。なんのことはない、いつもの衝動だった。ただちょっと、突き飛ばしただけだった。そんなに力なんて入れてない。悪いのは俺じゃない。ただ、運が悪かっただけなんだ。たまたまの足に机が当たってしまい、バランスを崩したは畳に投げ出された、だけ、だった。予想外のことだけに、俺は不覚にも一瞬すべての動作を停止させてしまった。思考すら。は、例によってあのおおきな瞳に涙を溜めながら、走り去ってしまったのだ。 「ったく…どこ行ったんだよ…。」 こんなの、予定外すぎる。俺は、を傷つけたいわけじゃない。の傷を癒してあげたいだけなのに。でも、純粋なに傷なんて誰にもつけさせたくない。俺が傷つけて、そして俺が癒してやればいい。その感情が、ひどく歪んでいることに気付いていながら、俺は目をそらし続けている。視界なんかにいれず、ただひたすら、見えない、と。 「…あ。」 微かに聞こえてきたのは嗚咽を漏らしたような声ともつかないものだった。だ。立ち止まり、少し思案してから、俺は足音をできるだけ殺してその声に近付いた。いきなり後ろから抱きついて、そして頭を撫でてやろう。ごめん、そうひとこと呟けばは泣きながらも首を縦に振るに違いない。そうして疵をなめてやれば、元通り。その、はずだった。 「おい。」 ここにあるはずのない声とともに、開けた視界に飛び込んできた二つの影。現状がまたも俺の思い通りになっていないことに、俺は気付かざるを得なかった。びくりと小さいほうの背中が揺れる。 「た、か、すぎ、く…」 「泣いてんのかよ」 やはりびくりと震えたは、ごしごしと手の甲で涙を拭ってから、左右に千切れんばかり首を振った。一瞬遅れて、背中辺りまである髪が宙を舞う。高杉が、ゆっくりとに歩み寄った。優に二人分の空間をあけて、の隣に立つ。が三度震えた。 「泣いてただろ」 「泣、いて…な、い」 「目が赤ェんだよ」 「おはな、見て、た、だけ…だもん」 き、れい、だった、から。ぼそぼそと喋るの声が辛うじて俺の鼓膜を振動させる。震えているのは鼓膜だけじゃなかった。肚の奥で、あいつが唸っているのが振動として俺に伝わる。体の内側を炎で焼かれているようだった。痛みさえ覚えそうなそれ。元凶が高杉であることなどとうにわかっている。しかし、俺はこの場から一歩も動くことができなかった。 「花ァ?」 「っそ、う…あそこの。」 が指を指した先にはきっと花があるのだろう。ここからでは見えないそれも、高杉には見えているようだった。当り前か。高杉は今の隣にいるのだから。なんでもないはずのその状況が、酷く癪に障った。腸が煮えくりかえりそうだ。と、唐突に高杉はその場にしゃがみこみ、足もとにあった草をぶちぶちと千切り折った。ひっというの悲鳴が風に乗ってここまで届く。右手に持ったそれを左手に持ち替えて、高杉は握ったこぶしをに突き出した。 「ほらよ」 「え?」 「花。きれいだったんだろ?」 スミレだろうか。高杉が乱暴にに突き出した拳を、当の本人は茫然と見つめている。ほらよ。再度高杉はに押し付けるかのように手を揺らした。押し付けるといっても、もともと二人の距離は必要以上にあいている。高杉が手を伸ばしたからと言ってに届くはずもなく、は少し躊躇してからその花を受け取った。 「あ、りがと…高杉くん」 「…おう。」 スミレだなんて。肚の獣は今や血を吹き出しながら暴れ狂っていた。愛と誠実?笑わせる。高杉が?あの、高杉が?可笑しすぎて臍で茶でも沸かせそうだ。おかしすぎる、笑いが止まらない、はず、なのに、俺の顔は笑みをかたどるどころが不自然なほど無表情だった。声を発すれば気づくほど近くにいるはずなのに、あの二人と俺の間には何か分厚い壁があるかのようだった。超えられるはずのないその向こうで、高杉が頬を掻くのが見える。 「なあ」 「…?」 「いい加減、その、高杉くんってよせよ。ガラじゃねェ」 「でも…」 「他に呼び方あるだろ」 うーん、と考え込むようなそぶりを見せてから、恐る恐る、といった様子では高杉の名を口にした。 「晋ちゃん」 息が、止まるかと、おもった。 「ば、ばっかじゃねーの?!」「い、いや、だった?」「嫌、だとは、言ってねェよ!」二人の会話が、まるで水の向こう側から聞こえてくるかのようだった。遠くに響くその声は、妙な反響で俺の水面をさざめかせた。 嗚呼、獣が、獣が、 肚でのたうちまわる黒いそれは、バチンと鈍い音を立てて弾けた。どろどろとした魔物が、俺の体を支配する。今ならわかる。俺が、彼女に抱いていたあの感情は。その瞳に、唇に、耳に、髪に、手に、腰に、足に。髪の毛一本からちっさな足の指の先までに。抱いていたあの感情は。 「、」 息ができない。苦しい。一歩踏み出しながらかろうじて呟いたそれが彼女に伝わることはない。ぐちゃり。足元で菫が死んだ。 |