「鉢屋せんぱぁい!!」 騒がしい食堂。甘ったるいその声が耳に飛び込んできて、あたしは思わず眉をひそめた。正面に座る雷蔵が困ったように笑うのが目に入る。その隣に座る鉢屋は、思わずといった様子で箸を止め、うんざりとしたような表情を見せた。それもそうだろう。かれこれ一週間、このような状況が続いていた。 「あ、お隣いいですか?」 誰も許可してないのに目の前のくのたまは鉢屋の隣に腰を下ろした。おいおい、あたしたちには挨拶もなしですか。いい御身分ですね、と。ぶつぶつと心の中で呟きながら味噌汁を啜った。実際彼女はあたしたちのことなんか目に入っていないのだろう。雷蔵も竹谷も、そのとなりに座っている久々知も、完全に存在を無視されている。少女の視線の先はいつだって顔を引き攣らせた鉢屋、だ。 「あれ、鉢屋先輩もB定食なんですか?! 私もなんですー! 偶然ですねっ!」 「あ、ああ…」 彼女がこうやって鉢屋を追いかけ始めたのは一週間前に遡る。雷蔵によると、彼女と鉢屋の出会いは学園の外、らしい。掻い摘んで話せば、忍務で外に出た鉢屋が、たまたま帰り道に少女が襲われてるのを見つけ、彼女を助けたらしいのだ。そのときに一目ぼれ、だなんて、ベタにもほどがある。鉢屋がモテるのは今に始まったことではなかったが、この少女の求愛はそれはもうひどいもので、みんな手を焼いているのだった。 「鉢屋先輩って、お魚好きなんですかぁ?」 語尾を伸ばしたそれにひどく不快感を覚える。いつもそうだった。このくのたまの行動は、どういうわけだかすべてがあたしの癇に障るのだ。だいたいなんなの。せっかくの昼食時間なのに、なんであたしは休み時間までこの少女と共に過ごさなきゃならないの。イライラが増幅していくのが手に取るようにわかる。ああ、うるさいうるさいうるさい! 我慢できずに斜め前の鉢屋をにらみつけた。難しいような顔してるけど、実はうれしいんでしょ、どうせ。鉢屋の隣でひたすら彼に視線を送ってるくのたまは、たしか学年で一、二位を争うくらい美人だと有名だったはずだ。ああもう、男なんて結局顔がよければいいんでしょうね。不機嫌を隠すことなく鉢屋を睨みつけていたら、これまた不機嫌そうな鉢屋と目が合う。睨まれた。 「なんだよ」 「別に、なんでも」 「なんでもないのに睨むなよ」 「誰かさんが鼻の下伸ばしてるから」 ぴしり。空気が固まるのを肌で感じたが、もうどうすることもできなかった。鉢屋の瞳の鋭さは増し、本気で苛立っているのが見て取れる。わかっている、これはただの八つ当たりだ。鉢屋はなにもわるくない。わるいのは、あたしだ。それでも、もう止まらない。 「どう見たって鼻の下なんて伸ばしてないだろう」 「のびてますぅーだらしない顔してますぅー」 「この顔は雷蔵の顔だッ!」 雷蔵が箸を止めたのが視界の片隅に飛び込んできたが、それさえもうどうでもよくなっていた。ああ、苛々がとまらない。鉢屋とくのたまが並んでご飯を食べる光景なんて、みたく、ない。 「だいだいね、あたしの前でイチャつくんじゃないわよ!」 「イチャ…?! どう見たって違うだろう!」 「どう見たってイチャイチャしてるじゃん!」 「たとえそうだとしても、なんで私がお前の許可を得なきゃならないんだっ!」 がちゃん。立ち上がった拍子に湯のみが倒れた。食堂は一瞬で水を打ったように静かになる。窺うような周囲の視線を感じながら、あたしは驚いた顔の鉢屋から視線をそらした。 「…ごちそうさま」 低い声で呟く。心配している様子の久々知と雷蔵も、おい、と声をかけてきた竹谷も、ぜんぶ、ぜんぶ、なにもかも無視して私は食堂を立ち去った。食器そのままにしちゃったけど、きっと雷蔵が片づけてくれるよね。きっと。気づけばどうしてか視界がゆがんでいて、あたしはそれに気付きたくなくて走り出す。胸が締め付けられて、いらいらして、かなしくて。鉢屋の、あたしを拒絶するような声が耳元できこえる。ああ、棘が刺さって癒えない。 「……ありえない」 痛む腰をさすりながらあたしは空を睨みつけた。切り取られた蒼は遠く、どれだけこの穴が深く掘られているかがわかった。きっと4年の綾部くんの仕業に違いない。いくら注意力が散漫だったからって、5年生にもなって受け身も取れなくてどうするの。溜息をついたらなんだか知らないけれど涙までこぼれてしまった。ひとつ、ふたつ。暗がりの中で、こぼれた部分だけが黒く滲む。鉢屋の科白が、お前には関係ないと、あたしを突き放すような冷たい声が、棘のようにささってちくちくと痛んだ。ぽたり、ぽたり。しみこんでいく滴を見つめていたら、ふと周りが暗くなる。同時に降ってきたのは、ひどくやさしい声だった。 「…?」 びくり。とっさに顔を袖で拭って、小さな空を仰ぎ見る。地上ではびゅうと風がふいたらしく、黒髪が揺れて見えた。 「久々知?」 「結構深いな…出れるか?」 ふるふると首を横に振れば、ひょっこりと顔を出した久々知は苦笑しながら手を差し出してきた。ごめんね、と呟きながら精一杯背伸びしてその手を掴み、どうにかこうにか脱出した。あぶないあぶない。あと一尺でも深かったならば久々知が手を伸ばしても届かなかったかもしれない。あたしは久々知に向きなおる。 「久々知、ごめんね。ありが、」 感謝の言葉は最後まで紡がれることはなかった。息を呑む。目が合って、咄嗟に踵を返すも手首をつかまれてしまった。振り払う間もなく、そのまま後ろから抱きすくめられた。どくり。体中の血液が逆流したように脈打ってから、顔に熱が集まる。一瞬おいてから暴れ始めるけれども、そんなあたしの抵抗なんて全然平気とでもいうように、さらに体にまわしてある腕に力が入る。いきが止まりそうだ。あたまのなかでは雷蔵の顔をした鉢屋とくのたまのおんなのこがぐるぐるまわる。くるしい、くるしい、くるし、 「は、なしてっ!」 「嫌だ。放したらは私から逃げるだろう?」 「やだ、鉢屋っ! いい加減に、」 「」 耳元で吐息をぶつけるようにささやかれて、思わず体がびくりと震えた。さらに鉢屋が体を密着させてきたせいで、自分の鼓動が余計に速くなるのがわかった。 「く、久々知の顔してたら、勘違いされちゃうでしょ」 裏返ったようなあたしの声に一瞬思案してから、鉢屋は左手だけを動かして久々知の変装をといた。どうやら下はきちんと雷蔵の顔らしい。あわよくば逃げ出そうと思っていたあたしは、再度鉢屋が腰に腕をまわしてきたことで完全に逃走を諦めた。だからといってこの状況に納得したわけではない。飛び出してきた言葉は、ひどく冷たかった。 「抱きついてたら、あのこ、誤解するんじゃないの」 「誤解も何も、あいつが勝手に私に付きまとってるだけだろう」 「付きまとわれて内心うれしかったのはどこのどなたですか」 「なんだ、嫉妬か?」 からかうような声色に、一瞬思考が停止した。し、っと? なにを言われたか理解した瞬間に、忘れかけていた熱が体中を駆け巡った。し、嫉妬って、まるで、まるであたしが、あたしが、鉢屋に、け、懸想してるみたいじゃない…! 「ば、ば、ばっかじゃないの?!」 「おや、まだ気づいてなかったのか?」 「何がよっ!!」 お前はな、私のことが好きなんだよ。 高くも低くもない声があたしの鼓膜をくすぐって、思わず体を震わせると、くくっと笑った鉢屋がさらにきつく腕をからめてきた。それにどくりと心臓が跳ねて、いやでも気づいてしまう。ああ、なんであたし、こんなやつに、 「?」 「な、によ」 「ほら、自覚もしたことだし、早く言えって」 心をよんだのかこいつは。悪態をつこうとして、微かに鉢屋の声が震えているのに気づく。ともすれば見逃してしまいそうな些細な変化だった。ぎゅう、とさらに強くあたしを抱きしめる鉢屋の鼓動は、なぜかとても早い気がした。 ああ、もしかしたら鉢屋も、あたしと一緒で、 「はちや、」 そう言って、あたしのおなかあたりに回された鉢屋の手に自分のそれを重ねる。びくりと鉢屋が跳ねて、少し笑ってしまいそうになった。 「ばーか」 「馬鹿とはなんだ馬鹿とは」 ぎゅうと手を握ったら、鉢屋は自分の左手であたしの右手を絡めとった。一気に体温があがったあたしの耳元で、鉢屋が小さく呟く。「すきだ」。 ああ、鉢屋もとっても馬鹿だけど、そんな馬鹿に惚れたあたしも相当の馬鹿かもしれない。 |