それ を自覚したとき、思わず僕は泣きそうになった。体中の血の気が引いていくような思いであった。たった、たったひとこと。友人の、あの一言で、




「おい、!」
「え? あ、なに?」
「どうしたんだよこの頃。ぼけっとしすぎだ」
「そ、うかな」
「ああ。まるで、」




こい、してるみたいだぞ。
嗚呼、気づいていなかったのに、気づかないふりをしていたのに。
気づいてしまった。気づいたらいつも、彼、を、目で追ってしまっていた。


僕は、久々知兵助に、恋をしていた。
















同じクラスだからと言って、仲が良いかと問われれば否と答えるであろう。僕も久々知も静かなほうであったので、会話は数えるほどしかしていない。久々知は尾浜やろ組の連中とつるむことが多かったし、僕は僕で久々知と級友ということ以外何の接点もなかったから、彼と会話どころか目を合わせる回数すら両の手で事足りた。そんな状況で、僕が、どのようにして彼に想いを寄せたのか、きっかけすら思い出せない。気が付いたら、目で追っていた。耳が、彼の声音を拾い集めていた。指先が、彼の髪を求めていた。彼が、彼が、僕をとらえて離さない。




男が男に恋情を抱くだなんて、おかしすぎる。そう頭ではわかっていても、もはや止めることはできなくなっていた。心が、身体が、僕のすべてが彼を欲していた。目が合うだけで心臓が跳ねた。名前を呼ばれるだけで咽が乾き、声が発せなくなった。すれ違いざまに髪が触れるだけで、目眩がする思いだった。僕は臆病もので、ひどく内気だったせいで、彼に話しかけることすらできなかった。だから、僕と久々知の距離は近くも遠くもならず、常に一定の距離を保っていた。真面目で優秀な久々知は学年で主席だったから、僕も負けないくらい勉強した。久々知は火薬委員だったから、あまり得意じゃない火器だって夜遅くまで練習した。少しでもいいから彼に近づこうと、僕なりに必死だったのだ。結ばれたいだとか、そんなことこれっぽっちも考えなかったと言ったら嘘になる。でも、まず何より久々知に僕を認めてもらいたかった。ただの級友ではなく、一人の人間として、として、認められたかったのだ。




それでも、僕と久々知の距離は常に一定だった。満足していたわけではないけれど、どこかで諦めていた。どこかで諦めながらも、ひとかけらの希望までは捨てきれなかった。平行にまっすぐひかれた僕と久々知の線が、少し、ほんの少しでいいから近づきはしないかと、そう、望んでいた。
































ー!」




その日、は曇りだった。日の長さはだんだんと短くなっていき、吐き出す息こそ白くはないものの、空気は数カ月前と比べだいぶ澄んできていた。駆け寄ってきた尾浜は、私服であった。困ったように眉が下げられる。 「兵助に、言伝が」 どうやら急なお使いで、彼はすぐにでも学園を発たなければならないらしい。帰りは三日後になるから、それまで部屋を留守にする、と。尾浜と久々知は同室だから、急に帰ってこなくては心配するにきまっているだろう。僕はこくりと頷いた。尾浜の表情がゆるむ。




「ありがとな!」




走り出した尾浜は一度振り返り、大きく手を振ってから門の向こうへ消えていった。すでに出門表に名前を書いていたようだ。きっと、小松田さんに言伝を頼もうとしたんだろうな、最初は。でも、たまたま僕が通りかかったから、僕にしたのか。確かに、自分だったら間違っても小松田さんに言伝など頼まない。ひとつくすりと笑いをこぼしてから、僕は潔く事の重大さに気がついた。 「へいすけに、」 思わず久々知の顔を想像してしまって、どくりと胸が震えた。そういえば、最近、喋ってない、かも。あの、ちょっと低い、けれどもほわりと温かい声を聞いたのはいつだっただろうか。長い睫毛、うるんだ瞳で見つめられたのは? 軋むように痛みだした胸をおさえ、ふうと息を吐きだした。大丈夫、きっと。顔を上げ、一歩踏み出す。尾浜が久々知に会えなかったのだから、きっと彼は自室にはいないだろう。向かうは、焔硝蔵だ。
































「く、久々知ー…?」




返事はなかった。僕は思わず頭を抱える。天気が悪かったのも相まって、あたりは大分暗くなっていた。外では問題ないだろうが、ここは室内である。しかも、火気厳禁。夜目は利くが、如何せん場所が場所だ。見えているからと過信しすぎて棚でも倒そうものなら、火の手が上がって火傷どころでは済まされないだろう。冬が近づき、空気も乾燥しているからなおさらだ。だから、できるだけ足を踏み入れたくなかったのに。




「おーい、だれかー……あれ、いないの?」




そんなはずはない。蔵の扉は全開もいいところだ。これで無人だったら鍵を取り付けている意味がない。火薬委員の人はいないのだろうか。いくら待っても返事はなく、ほんの少し躊躇してから、僕は思い切って蔵の中に足を踏み入れた。開いているからには誰かしらいるはずだ。そしてそれは、委員長代理である久々知の可能性が高い。蔵の中に入ったことなど数えるほどしかないから、中がどれだけ広いかどうかはわからないけれど、適当に進んでいけばどうにかなるはずだ。壁沿いに、僕は歩みを進める。




「あれ?」




視界が少し開け、僕は気になるものを見つけた。調合用の机なのだろう、開けた空間にどっしりと据え付けられた大きい机の上に、一枚の布が置いてある。近づくと、それが頭巾であることがわかった。何とはなしに手にとってまじまじと見詰めてみる。
刹那、ふわりと香ったそれに心臓を鷲掴みにされた。




「……く、」




久々知、の、
すれ違いざまに彼の髪から香るそれはいつも僕の胸を締め付けていた。どうやったって捕まえることのできないそれに、幾度手を伸ばしてしまいそうになったことか。どくりどくりと全身が脈打つかのようだった。視界が震える。手にしたそれは急に熱をもったかのように熱く感じた。




「久々知、」




ゆっくりと布を顔に近づける。さらに香りが濃くなって、僕は泣きだしそうだった。




「久々知、」 好き




言葉にできない想いを込めて、僕はゆっくりとそれに口付けた。
























「みぃーちゃった」




全身の血液が凍りついたかと思った。咄嗟に振り返ると、暗闇の中一人の男が立っていた。窓から辛うじて差し込んでくる月明かりが、男の足元を照らしている。飛び込んできた色に、思わず目眩を催した。紫苑だなんて、そんな、馬鹿な。僕が、後輩の、気配に、




「気付かなかったのは仕方ないと思うよ? 僕、気配消すのだけは得意なんだぁ」




妙に間延びしたその声は、薄暗いここに酷く不釣り合いだ。月明かりに浮かび上がる笑みと、きらりと反射する黄金の髪がそれに拍車をかける。にこにこと、まるで僕と正反対のところにいるこの男のことを、僕は知っていた。




「さい、とう……」
「いやだなぁ、そんな他人行儀。タカ丸でいいよ。僕とくんの仲だもの」




どんな仲だというのだ。以前一度だけ、焔硝蔵で会っただけだというのに。名前を覚えていたのだって、たまたまだ。4年に転入してきたという話は、学園内で知らないものなどいないだろう。こめかみを汗が伝うのを感じる。心の臓は、どくどくと張り裂けんばかりに全身に血液を送っていた。貼り付けられた笑み、それが網膜に焼き付いて、僕のあたまのなかに警鐘が鳴り響く。ゆっくりと斉藤が手をあげたので、思わず身体がびくりと震えた。それを、愉しむように、斉藤の目が細められる。三日月形のそれに背筋が粟立った。すらりと伸びた人差し指が、僕を指差す。




「それ、へーすけくんの頭巾でしょ?」




気を抜いたら嘔吐してしまいそうだった。極度の緊張から、額が、掌が、じっとりと汗ばむのがわかった。それさえ見透かしているかのように、含み笑いを張り付けたまま斉藤は僕に歩みを進める。反射的に僕は一歩下がった。それすら目の前のこいつを愉しませる要因にしかならないらしい。斉藤が一歩進むごとに、僕は一歩下がる。斉藤の黄金の瞳から目が離せなかった。まるで恋人どうしのように、暗闇の中で僕たちは見つめあっている。月明かりにきらりと斉藤の瞳が光った、次の瞬間。鈍い衝撃とともに僕は壁際に追い詰められていた。背中に触れる土壁がひどく冷たく感じる。歪んだ唇を、斉藤は釣り上げた。




「兵助くんにばれちゃったら、まずいんじゃないの?」




ひやり、と背中を何かが伝った。胃のあたりが捕まれたようにぎゅうぎゅうと痛む。斉藤から目が離せない僕を見て、満足そうに斉藤は言葉を続ける。




「嫌われちゃったりして」
「あ……っ、」




恐怖に染まった瞳を、きっとこの男は見逃さなかったに違いない。きゅ、とさらに目を細めて、斉藤は歩みを止めた。こいつは指一本たりとも僕に触れてはいないのに、まるで全身を撫で回されているような悪寒が僕を襲う。震える手を抑え込むように握ると、爪が掌に食い込んで鈍く痛んだ。




「声もかけてくれなくなって、目も合わせてくれなくなるかも」




僕の意思に反して、からだの震えは止まらない。久々知に嫌われてしまうなんて、そんなの耐えられない。目をそらされてしまったら、どうしていいかわからない。好きにならなくていい。特別に思ってくれなくていい。ただの級友のままでいいから、だから、おねがい、ぼくをきらわないで。




斉藤の掌がゆっくりと僕の頬に宛がわれた。僕より一回り大きいその手は、やっぱりまめだらけで、そして酷く温かい。その体温にすらびくりと身体を震わせてしまう。追い詰められた僕を見て、斉藤はこれ以上ないほどにっこりと微笑んだ。




「ね、くん。僕、言わないであげてもいいよ?」




それは悪魔の囁きに近かった。は、と思わず吐いた息さえこの男に支配されているようで気分が悪い。ぐらりと平衡感覚を失いそうになって、近づいてきた男の微笑がぶれる。いつの間にか斉藤の左腕は僕の腰をがっちりとつかんでおり、頬に添えられていた右手に後頭部を押さえられていた。思わず目をつむると、ひとすじ、何かが頬を伝ったのを感じた。
























口吸いは一度では終わらなかった。二度、三度、啄ばむように触れていたそれは最後に唇を舐めて去っていった。誓いの口付けだね。愉しそうに呟く斉藤。唇は奇妙にゆがめられている。思い出されるのは先ほどの柔らかい感触。僕の唇はいまやふるふると震えていた。戦慄いてるそれをしばし見つめてから、斉藤はおかしそうに肩を震わせた。




「な、にが、おかし、い」
「んー?」




にらみあげると、斉藤は生気を吸い取るかのような笑みを浮かべた。それに、ぞくりとまた僕の全身が粟立つ。笑いのとまらない斉藤は、僕の首筋に顔をうずめて必死でそれを噛み殺す。首筋に唇で触れながら、至極愉しそうに斉藤は呟いた。




「愚かなくんが、かわいくって」
「なっ、」




かぁっと顔に熱が集まるのがわかった。先ほどとは違い、怒りで身体が震えるようだった。刹那、無意識的に左手がピクリと動いた。しかしそれは斉藤の右手で押さえられ、懐の苦無までは届かない。思わぬ反撃に怯んだ僕に咽で嗤ってから、斉藤は僕の耳にまるで吐息をぶつけるかのように囁いた。




「さぁて、愚かでかわいいくんに問題です」




へーすけくんがここにいないのに、彼の頭巾がここにあるのは、なぁんで?








ひゅ、と自分の咽が鳴ったのがわかった。先ほどの熱は一気に冷めて、がくがくと震えそうだった。否、もし斉藤が僕の腰に腕をまわしていなかったら崩れ落ちていたかもしれない。米神を冷たい汗が伝う。くつりと僕の耳元で嗤ってから、斉藤は身体を起こした。ともすれば鼻先が触れ合ってしまいそうな至近距離で見つめられる。瞳孔の開ききった黄金の瞳に吸い込まれてしまいそうだった。最後ににこりと目を細め嗤い、斉藤は背後を振り返った。




「おかえり、兵助くん」




その後の彼の表情は髪に隠れて見えなかった。たとえ隠れていなくとも、僕にはきっと斉藤を視界に収めることはできなかったであろう。僕の瞳は彼をまるで射抜くかのように見つめていた。流れるような黒髪、闇に溶けてしまいそうな鉄紺。




久々知、




嗚呼、掠れた声はきっと彼には届かない。
































喪失感を疑似体験


(願わくば)(これが一夜の夢でありますように)











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091213  下西 糺







難産すぎた/(^q^)\
最初タカ丸夢だったんだけど……なんかもう……豆腐が出張りすぎました。
タカ丸はこれくらい黒ければいいと