「ねぇ三郎」 「なんだい」 「どうして、は僕のこと嫌いなのかな?」 ゆらり。炎が揺れた。 まるで穴の中のように、この部屋は暗い。きっと外も真っ暗だ。 部屋に置かれた二つの蝋燭が、ゆらりゆらりとゆれている。 天井に映し出された僕の影も、炎によって、ゆらり、ゆらり。 はあ、とため息をついて、持っていた筆を硯のなかに突っ込む。 ぢゃぷん。 そのまま、碌に墨を落とさないで筆を持ち上げると、びちゃびちゃと白い紙に、華が咲く。 なにをかこうかな。 そう考える前に右手は勝手に動いていた。 右上に一回書いて、それからその下にすぐにもう一度書いた。 、、。一度書いたら止まらなくなった。 まるで阿片のようだ。南蛮には阿片というものがあって、それは酷い依存性と中毒症状を引き起こす、らしい。 最後には、それがないと生きていけなくなってしまうのだって。 ああ、まさしくは僕にとっての阿片に違いない。 僕、がいなくなったら息のしかたさえ忘れてしまいそう。 「……は、もとから他人のことをあまり好いてはいないだろう?」 「うん、そうだね」 「だから、雷蔵、そんなに気に病むことは、」 「でも、嫌いじゃない。ぼくだけ」 「っ、」 ぢゃぷん。 筆を放り投げたら、今度は柄の部分が墨に浸かってしまった。 あーあ。 視線を紙に戻す。投影された炎の光がちらりちらりと文字の上を踊る。 「三郎、は、、はね、僕のことが嫌いなんだよ」 。最後に書いた文字は墨が足りないのか、掠れてほとんど読めないものだった。 まるで僕みたい。掠れきってて誰の目にも映らない僕。 ううん、誰の目にも、じゃない。不特定多数じゃない。 三郎だって、はっちゃんだって、兵助だって、勘右衛門だって。 委員長だって、後輩たちだって、みんなみんな、僕のこと認識してくれてるのに。 だけ。だけが僕をみてくれない。 気づいてないんじゃない。気づかないふりをしているだけ。 なんで、なんでなの。僕になにかしたの? 「どうして、」 どうしては僕のことがきらいなの。 僕はこんなにものことが好きなのに たとえばその瞳その鼻その唇首筋から鎖骨までそれから胸と腕と細い手首に長い指腰のラインと脚それから足首に、 あたまのてっぺんから足の爪先までだいすきなのにあいしてるのにどうしては僕のことを好きになってくれないの。 の瞳がほしい僕だけを映すの茶色の瞳が、 の唇がほしい僕の名だけを紡ぐの薄い唇が、 の指がほしい僕だけにふれるの長い指が、 の心がほしい僕のことだけを考えるの心が、 のすべてがほしい僕だけの僕のものだけのだれにも触らせない見せない僕だけの、僕だけの そのためならなんだってするのになにをとられてもいいのにいっしゅんでもあいされるなら僕はしんだっていいのにねえ神様なんでは僕のことがきらいなのですか、ねえ、、どうして? 「僕はのことがほんとうに好きなのに。大好きで、大好きで、大好きで、」 「雷蔵、もう、」 「ああああ好きだよ好きなんだ好きなのにどうして僕を見てくれないのどうしてぼくじゃいけないのぼくのなにがいけないのなおすからなんでもするから僕のためならなんだってするからだからだからおねがいぼくを、」 ゆらり、ゆらり。 風に揺れていた炎が何者かに遮られた。 まぁっくら。なんにもみえないそれは、いまのぼくのこころみたい 僕のこころにはぽっかりあながあいている。 ふかくふかく掘られたあな。 それを埋めることができるのは、ただひとりなのに、 その一人だけが、ずっとずっと、僕の存在をみとめてくれない 、、、 ぼろぼろとこぼれおちる涙をそのままに、ぴくりと動いた生温かいてのひらは、 「雷蔵、」 「ねえ三郎どうしては僕のことがきらいなの?」 「雷蔵、ゆっくりと息を吸って、そして吐くんだ」 「さぶろう、ぼく、」 「ほら、吸って」 ゆっくりと息を吸って、吐き出す。瞳を閉じたらまた一筋涙がこぼれた。 ああ、三郎の低い体温がきもちいい。このまま眠ってしまいそう 「なに、お前は疲れてるだけさ。明日も早いし、もう寝よう。な?」 突然やってきた強烈な睡魔は強引に僕を夢へと誘った。 口をあけることすら億劫で、こくりと顎を引くと、三郎がほうと息を吐きだした。 刹那、脳裏に蘇る、ちろりと揺れる炎、の顔。ああ、どうして。 泥の中に沈むように、穴へと落ちていくように、僕は意識を手放した。 ねえ、ほかにはなにものぞまないから、だからおねがい、ぼくをあいして + 不規則で浅かった雷蔵の呼吸が、だんだんと深いものにかわる。 ぐらりと揺れるからだに慌てて手を伸ばし、ゆっくりと畳に寝かせた。 目の端にたまった涙がきらりと蝋燭を反射させる。 人知れず、私はため息をひとつこぼした。 。 組も違うし委員会も違うあいつのことを、雷蔵はどうして好きになったのだろうか。 接点などないに等しい。 実際、雷蔵が彼の名前を口にしなければ、私はという人間が同学年にいるということすら知らなかったに違いない。 の、どこが雷蔵をそんなに引き付けるのだろうか。 男同士だから、どう、ということではなかった この時代、そんなものはめずらしくない。 可笑しいのは雷蔵のこの執着心だ。 彼のに対する執着心には、この私ですら時折背筋をぞくりとさせられる。 何気ない日常、そのなかで雷蔵がふと見せる異変 その雷蔵の視線をたどれば、そこには間違いなくが立っているのだ。 雷蔵の、滲み出るような殺気は、たいがいの会話相手に向かっている。 それは食満留三郎先輩だったり、用具委員の一年生だったり、彼と同じは組の人間だったりするのだが、 六年生にも一年生にも酷いときには教員にさえ、射殺さんとするばかりに睨んでいるのだ。 それが故意なのかはたまた抑えきれぬ己なのか、私にはわからない。 ただ、殺気に気づいたがこちらに背を向けて、一年生たちを守るようにしながら視界から消えたあと、 「行こう、三郎」 そういうお前が苦しそうで、悲しそうで、私は、どうしたらいいのか分からなくなる 「……雷蔵」 目元の涙をぬぐってやって、押し入れから取り出した布団をかけてやる。 泣き疲れたのか、髪の毛を撫でてもぴくりともしなかった。 「雷蔵、どうして、」 どうして言ってくれないんだわたしたちはふたりでひとつだろう? お前が言ってくれないから私はなにもできないんだ。なにも協力してやれないんだ お前が一言、たった一言、が好きだと、そう一言告げてくれさえすればいい。 そうしたら私は、面と向かってお前に言えるだろう。 今のままでは駄目だと。変わらなければならないと。 でも、お前はなにも口にせず苦しそうに笑うだけ お前は私になにもいわない。だから私はしらんふり 私はお前になにもいわない。だからお前もしらんふり 雷蔵がなにもいってくれないから。雷蔵がうちあけてくれないから、雷蔵が、雷蔵が、雷蔵が、 そうやって私はまたすべてを雷蔵のせいにして、そうしてなにも知らない莫迦のようにすべてから目を背けるのだ。 ああ、これが私の悪い癖。 すべての原因を他人になすりつけて、そうして自分の保身を図る。 雷蔵、お前のことを一番に考えるなら、殴ってでもとめるべきだとわかっている それができない私が悪いのだ。そんなこと、痛いほどわかっている。 お前に嫌われたくない お前は私にとって唯一無二の存在。 お前に嫌われたらどうしていいかわからない。 ぐるぐると、私は同じことをなんどもなんども考える いつかは言わなければならないのだ 雷蔵のためにも、のためにも、 ああでも言ってすべてが壊れてしまったら? 修復不可能なくらいぼろぼろになって、私のまわりになにもなくなってしまったら? ああいったいどうして、どうしたら、どうしたら、 「……悩むのは、お前の十八番のはずなのにな、雷蔵」 髪を撫でると、ぽろりとひとつの涙が落ちる 悲鳴を吐き出すように、わたしはぽつりとつぶやく 「すまない」 なにに対しての謝罪なのかは、自分でもわからなかった。 + 告白こそされていなかったが、もうそれはすでにされていることと同義であった。 不破、雷蔵は俺に惚れていた。 気づいたのはいつごろだっただろうか。それさえあいまいである。 気づかないことなど不可能な あれ の眼差しは狂気さえ孕んでいて ガラにもなく背筋がぞくりと粟立ったのを覚えている。 俺はもとから人嫌いである。 どうしたら他人との接点をすくなくできるか。 それしか考えてない俺は組の中でも浮いている。確実に。 かかわりがあるのは一部の同級生と委員会の先輩、後輩のみ。 でも、俺はそれで満足していたんだ。なにも望んじゃいなかった。 それがどうしてこんなことになった? 不破との接点などあっただろうか どうして、いつ、なぜ、あいつが俺を好きなのか、あいつのことがまったく理解できない。 俺が食満先輩と話をしていると、殺気を飛ばす。 俺がしんべヱ、喜三太、平太と飯を食ってると、殺気を飛ばす。 いったいぜんたいなんだというのだ。 俺がお前になにをした。俺のなにがいけないんだ。 殺気に気づいた食満先輩に気を遣わせてしまった。 微妙な空気の変化を感じ取った一年生に怖い思いをさせてしまった。 そして、 「、先輩?」 「……ん?」 「眉間のしわ、すごいことになってます」 「……ああ、悪ィな、作。考え事だ」 ああ、こうして作兵衛にまで気を遣わせてしまった。 ぽんぽんと作兵衛の頭を撫でると、作の顔がうっすらと赤らんだ。 それに、どくり、と、心臓が、 「あ、わ、りぃっ、喜三太たちとの、あの、癖が、」 「い、いえっ、別に……気にして、ねぇ、ですっ」 真っ赤になって顔を逸らす作。真逆の方向に顔を逸らす俺。 どくりどくりと爆発しそうなほど大量の血液を送ってるらしい心臓を怒鳴りつける。 心拍数くらい自分でどうにか出来なくて、なにが上級生だ! 奇妙な沈黙が用具倉庫を襲った。 それを打破しようと、唇を開いては、閉じる。 開いては、もごもごと何か言おうとして、閉じる。 参った。何を言えばいいのかわかんねぇ。降参だ。 とりあえずこの固まってしまった空気を何とかしなければ そう思って、真正面に視線を戻した時だった。 「さ、」 「先輩」 俺を見つめる作兵衛はもう赤くなどなってはいなかった。 それどころか真剣な表情は酷く青ざめている。 何かに脅えるように、唇が震えているのをみて、先ほどとは違う感覚で心臓がどくりと唸った。 「先輩は……不破雷蔵先輩と、どういった関係なんですか」 ざわり、と体中の気が逆立つようだった。 不破? 不破雷蔵? どうして、どうして作が、どうしてその名前を、 「あ、すみません、あの、俺、」 さっと俺の雰囲気が変わったのを感じ取ったのだろう。 慌てて作兵衛が言葉を紡ぐ。伏せられた瞳、睫毛が震えていた 「なにかされたのか」 自分の声が想像以上に冷たくて、無機質で それにびくりと肩を震わせた作兵衛には申し訳なかったけれど、 きっと無表情の顔を取り繕う術を俺は持っていなかった 「あいつが、お前に、なにか、」 「そ、そんなこと、ねぇ、で、」 「作兵衛、作、作、」 「あ、う……」 肩を掴んで顔を覗き込めば、うろたえた作兵衛が視線をさまよわせる。 こっち見ろ。低い声でそう呟けば、怯えたような瞳を向けられて心臓がどくんと痛んだ 「あの、なにかされたわけじゃねぇんです」 居心地悪そうにしながら話しだす作兵衛。 その肩をつかむ手を、俺はまだ緩めることができない 「ちょっと、話しかけられただけで、」 「ねぇ、君、富松作兵衛くんだよね?」 「……え?」 「ああ、僕は不破のほう。鉢屋じゃないよ」 「あ、はい。えっと、俺になにか、」 「ねぇ、君はとどういった関係なの?」 「それで? お前はなんて答えたんだ?」 「ただの委員会の後輩です、って。お世話になってます、と」 「そしたら不破は?」 「僕のに、なにかしてごらん。きっと殺してあげる」 「な、にも」 「……なにも?」 頷く作兵衛の顔はまだ青白い。声の震えもまだなおってはいなかった。 ああ、予想がついてしまう。 不破が、あの不破が、作兵衛になにを言ったのか。 ふつふつと湧き上がるどす黒いこの感情を、鎮めることなどできやしない 「作、もう俺には近づかないほうがいい」 「え?」 「留先輩には悪いが、委員会もすこし控える」 「、先輩、何、言って」 「だから、作、お前は俺を見つけても、無視、しろ」 信じられないというように目を見開く作兵衛。 その肩を、さらに強く握った 話してはいけない 見つめてもいけない 存在を認識してはいけない 作兵衛を傷つけるわけにはいかない。 あいつなんかに、不破なんかに、傷つけさせるものか。 だって、作は、作は、俺の、 「作、わかったか。わかったなら、返事を、」 「……です」 え? 「いやですっ!!」 どしん、と重い衝撃。作兵衛の腕が俺の腰にまわされた。 腹に顔を押し付けて、泣き叫ぶように作兵衛が声を張り上げる 「いやです、俺、先輩と、先輩と、話せないなんて、いやです! 先輩を見つめることも、できないなんて、いや、だっ! 先輩、先輩、どこにもいかないで、俺のそばにいて、俺から離れないで、先輩、おれ、俺、先輩のことが、す、」 強引に唇で遮ってから、最後まで聞けばよかったと後悔した。 だが、それももうおそい。身体は本能に忠実だった 噛みつくようなそれは、しかしまぎれもない口吸いだった。 右手で作の頭を押さえ、左手で作兵衛の腰を抱き寄せる。 まるで喰いつくかのようなそれ。隙間から強引に舌を捻じ込むと、作の身体がびくりと震えた。 「作、作、好きだ、作」 「、せんぱっ、」 「愛してる、作、俺が、」 俺が護るから。 口吸いの合間、息を吸うほんの一瞬で愛を呟く。 くるしいのか、作兵衛が涙をこぼす。それにどくりと腰が疼いた。 舐めとりたい衝動に駆られるが、一瞬でも唇を離してしまうのがおしい。 口吸いをしていないと窒息してしまうかのようだった。 作、作、ああ、背中にまわされたお前の腕が愛おしい。 後頭部に置いた手で髪を撫でて、よりいっとう抱きしめる。 作、お前は俺が護るから。 だから、お前は俺の隣でずっと笑っていろ 脳裏に、ちらとよぎった不破の顔を、俺は握りつぶした。 + 「ちょ、せんぱ、まって、んむ」 「まてない。ぜんっぜんたんねー」 作、もう一回。 耳元でささやかれて、ぞくりと背筋が逆立った。 反撃しようと口を開けば、すぐさまふさがれる。 言葉は唾液とともに飲み込んでしまった。 あの告白から少したつ。先輩には会うたびに唇を求められていた。 いつもは自信溢れている先輩が、切羽詰まったように呟くのだ。 作、作、 口吸いの合間に、悲鳴のように。そうして、愛してると囁くのだ。 俺が言葉を返そうにも、すぐに唇がまたふさがれる。 だから、俺はぎゅ、と先輩の背にまわした腕の力をつよめるしかなかった。 一昨日から食満先輩たち6年生は実習に向かっている。 そのため、留守の委員長の代わりに先輩が委員会を仕切っていた。 6年生がいないということは、校庭を塹壕だらけにする先輩や、頭突きで校舎を破壊する先輩がいないということだ。 必然的に仕事は少なくなる。昨日の残りの桶を修理してしまえば、今日の委員会は終わりだった。 現に一年たちは既に作業を終え長屋へと戻っている。 用具倉庫には、俺と先輩と二人きり。 それを自覚して顔を赤くした瞬間、気づけば先輩の顔が目の前に迫っていた。 「ん、ぁむ、」 「は、ぁ……作、作、」 にゅるりと先輩の舌が出たり入ったり、忙しなく蠢くそれに背筋が泡立つ。 かすかに聞こえる水音に酷く背徳感を覚えた。 だって、ここ、倉庫だし、だれがくるかも、わからないし、 「作、お前今なに考えてんの?」 「んふぁ、せんぱ、」 「お前は俺のことだけ考えてろ」 ちゅ、と啄ばむように口付けられて、さらに熱が集まる あっという間に潜り込んできた先輩の舌先が、俺の咥内を隅々まで喰い尽す でろりと甘い唾液に、頭の芯が溶かされる。視界が霞む。 壁に押し付けられた背中、ひんやりとつめたいそれが妙に現実的で、まるで夢と現の彷徨っているようだ。 「せんぱ、い」 「ん?」 「すき」 口吸いの合間、甘ったるい息を吐き出しながら短く告げると、先輩はちょっと目を見開いて、それからにいと唇の端を歪めた。 それにさえぞくりと腰が疼く。ああ、先輩、俺、 「俺は愛してるけどな」 唇の端は釣り上がって妖艶なのに、紡ぎだされる声は酷く優しかった。 また、ゆっくりと先輩の顔が近づく。それに応じて、目を閉じようとしたときだった 「あ、」 カーン、と学園中に響く鐘の音。ぴたりと先輩は動きを止める。 「先輩?」 「あー……そういや、吉野先生に呼ばれてた」 忘れてた。苦虫を噛み潰したような表情でそう呟いた。 吉野先生ということは、委員会に関してのなにかかもしれない。 「先輩、早く行ったほうがいいんじゃねぇですか?」 「んー」 「俺が倉庫閉めておきますから」 「……」 頼んだ。少し間をおいてから、先輩はそう告げた ぽん、と頭に乗せられた手がくすぐったい みあげると、ぱちりと目が合った。 目を細めた先輩は、さっと俺の額に唇を落としてから、ぐしゃりと頭を撫でまわした。 「じゃ、頼むな」 そう言って、先輩はくるりと背を向ける。 口付けられた額を両手で押さえて、俺はそれを見送った。 ずっとずっと、好きだった、先輩。 絶対片恋で終わると思ってたのに。その背中しか見れないとおもってたのに 前をあるく先輩は、俺のために立ち止まってくれた。 その茶色の瞳に、俺を映してくれる。 その薄い唇で、俺の名をよんでくれる。 その長い指で、やさしく俺にふれてくれる。 俺のことを見て、俺の名前をよんで、俺のからだにふれて、俺のことだけをかんがえて、そうして、愛してくれる。 幸せすぎて怖いくらいだ。おぼれてる。ぬけだせない。 「、先輩、」 目を瞑って名前をよんだら、瞼の裏側で笑う先輩。 大好きです。そう言ったら、照れたようにわらって、そのあとあの優しい声で、俺の名前を、 「富松、作兵衛……くん?」 ぞわり、と 身体中の毛が 逆立った 振り向くことなどできなかった。 否、それどころか指一本すら動かすことができない。 俺の身体が、この空間が、支配されているのを肌で感じた。 呼吸が浅くなる。息がうまく吸えない。びりびりと痛む、身体。 三年生は、まだ人を殺めたことなどない。 戦場にすら、足を踏み入れたことがないのだ。 どくりどくりと耳元でうるさく心臓が鳴った。 これが、殺気、 「富松、だよね」 殺気なんかに似つかわしくない声が、鼓膜を震わせる。やわらかい声だった。 それに反応した身体。汗が米神を伝ったのを感じた。 気力を振り絞って、唇を噛み切る。びりりとした痛みが走った。 がちがちに硬くなった身体が、酷くぎこちない動作を強要させる。 振り返った先に見えたのは、 「不破、せん、ぱ、」 リフレインするのは不破先輩のことば あの時と同じような笑みを張り付けた不破先輩が、そこに立っている。 頭のなかの先輩が、独特の低い笑いを漏らした気がした 、先輩。 唇が微かに震えただけで、それは声にはならなかった。 + 噎せ返る血の匂い、って、ほんとうはこういう場合に使うんじゃないのかな。 だって室内だし。一か所しかない出口は閉ざされてるから匂いがこもって仕方ない はやくこないかなぁ。扉に目をやる。気配で探っても、用具倉庫の近くにはひとっこひとりいない。 視線を足元に下ろした。ぴちゃん。脚を動かすと微かな水音。 暗がりに、投げ出されてる四肢。両足が普段ならあり得ない方向に折れ曲がってる。 うわあいたそう。僕は怪我ひとつしてないけど、見てる分にはとても痛そうだ。 ぴくりとも動かない。あたりまえか。どうでもいいけど。 どうでもいいはなしだけど、どうでもよくないものって、意外と少ないよね。 「あれ、これ何羽目だっけ?」 ウサギの耳をひっつかんで、頭上に掲げる。 三羽目? 四羽目? わかんないなぁ。 とりあえず頸動脈をくないで切断した。 ぶしゃ、妙にこもった音が聞こえて、手の中のウサギがぴくんぴくんと痙攣して、すぐ動かなくなる。 まだあたたかいそれを倉庫の隅に放り投げた。 飼育小屋から盗んできたやつだから、もしかしたらはっちゃんが必死になって探してるかも。 でもしょうがないよね。富松があんまりにも血を出さないから、しんでるように見えないんだもの。 突きつける現実は厳しければ厳しいほど希望が見えないからいいでしょ? 中途半端な希望なんて、さらに絶望を深めるだけだものね。 血まみれの萌黄色は暗闇だともうなに色だかわかんない。 「ぼくはわるくない」 だって富松がいけないんだもの。 僕のに手を出すから。僕のと口吸いなんかするから。 警告したのに。これ以上に近づくなって。 莫迦なお前は僕のやさしささえ突っぱねたわけなんだけれど。 「わるいのは富松でしょ?」 血だまりの中、横たわる彼に話しかけても返事は返ってこない どうしようかな。とりあえず両足は折ってみたけど。どうせなら両腕も折ってみようかな。 ああ、考え込むのは僕の悪い癖だよね。どうしよう。 腕を組んで、うんうん悩みながら倉庫の中を徘徊する。 迷うくらいなら右手だけ折っちゃおうかな。それとも左手? 耳を削ぎ落とすのもいいかもしれないな。 あ、でもそうすると音が聞こえにくくなっちゃうんだよね? それは困るなぁ。だって忍者にとって聴覚ってものすごく大切だから。 ふと、真っ暗だった世界に光が差し込む。反射的に、僕は扉へと目を向けた。 誰かはわかってたけど、姿を見たら心臓がどくりと跳ねた。 真っ暗な僕の世界に光を差すのは、いつだって君なんだ。 「おかえり、」 ずいぶん遅かったね。吉野先生は自室にいらっしゃらなかったの? にこにこと笑う僕と対照的に、は目を見開いてからぱっと袖で鼻を覆った。 あれ、そんなに臭うかな。僕、ずっとここにいたから嗅覚が麻痺してるのかも。 「なにが、起きて、いる?」 籠って震えた声が鼓膜を震わせて、思わず叫びだしそうだった。 ああ、だ、なんだ。 声を聞いたのはいつぶりだろう。会話をしたのなんて、もっとまえだ。 ぞわりぞわりと快感が僕を支配する。の茶色の瞳と僕の瞳がかちあって、歓喜に震える。 「不破、か? 不破? この、臭いは? 今、いったい、どうなって、」 混乱したようなの声が、ぴたりと途切れた。 視線は血だまりだった。どうやら目が暗闇に慣れたみたい。 今日は月が明るいから、差し込んだ光でよく見えるでしょう? 「さ、く……?」 声は掠れてて、どうしてか僕は笑いだしそうだった。狂ったように舌が踊る 「、! もう大丈夫だよ。僕と、僕とね、の間を邪魔したこいつはさっき息を引き取りました。もう大丈夫なんだよ邪魔者は誰もいないんだぼくとの邪魔をするものは誰も、」 「作兵衛っ!!!」 僕の言葉を遮って、が富松に走り出す。 なんで、どうして。 こんなに近くにいるのに、同じ空間にいるのに、どうしては僕を見てくれないの。 右手で素早く手裏剣を取り出して、目がけて打った。 それに気づいたが飛びのく。足元を狙ったそれは音も立てずに地面に突き刺さった。 よかった。に怪我させたらどうしようかとおもった 「不破、テメェが、」 地を這うような声とともに、ぎらりとが僕を睨むから、身体が震えてしまった。 いま、の瞳には僕しか映ってない。 いま、の唇が僕の名前を紡ぎだす。 いま、の頭の中には僕しか存在しない。 そして、これからは僕に触れるのだ。その長い指で。 「吉野先生は不思議がっていたでしょう? 呼んでもいないが訪ねてきたから」 「全部、お前が、」 「わるいのはあれでしょ。あれが僕との邪魔をするから、」 「不破ァァァアアアア!!!!」 ぶわり、との殺気が膨らんで、ぴりぴりと肌が痛んだ。 くないを取り出したが左足で地面を蹴って、ぐんと僕にとびかかる。 それが、最初で最後のとの手合わせの映像と重なる。 一年の春。入学したての頃のはなし。昔話のようなそれ。 あのときもは僕に向かって走ってきたんだ。 真剣な眼をして。僕の喉元だけを狙って。 あのときは途中で躓いて転んだせいで、僕が勝ってしまったのだっけ。 あのときの、の瞳が忘れられない。あれが、僕ととの出会い。 もう5年生だから躓いたりはしないよね。きちんと僕を殺してね。 「、」 すきだよ。 世界は全部すろーもーしょん。ゆっくりと、ぐるりと、まわっておちる 、ぼく、ほんとはね、富松を殺してやろうかと思ったんだ。 でもそれだとは僕を殺して自分も死んじゃうでしょ? そうしたら、死んでからも僕はとあいつが一緒にいるのを見なくちゃならないんだ を殺してもおんなじ。富松が追ってきちゃ意味ないの。 だからね、、君が僕を殺せばすべてがうまくいくんだよ。 富松は大丈夫。だってただ気絶してるだけだもの。 両足だって折れてるけど、でも奇麗に折ったからすぐにくっつくよ 僕が死んで、物語はおしまい。じ・えんど。 どさりと身体が地面に落ちる。あーあ、視界が霞んできちゃった。 最後に見るのはがいい。じゃないといやだ。 無言では突っ立って僕を見下ろしていた。見開かれた双眼。 ああ、ふつうは避けると思うものね。本気で殺そうとは思ってなかったものね。 「ふ、わ、」 僕の名前を呼ぶその声がいとしい。力が入らない口角を、わずかにあげた ほぉら、これでもうは僕のこと無視できないでしょう? 僕は君の中でいきつづけるんだから |