の荒い息遣いがここまで聞こえてくるような気がして、俺はひとり唇の端を釣り上げた。もう日が落ちてから大分経つ。学園では俺とが帰ってこないと騒ぎ始めるころだろうか。がさり、わざと音を立ててのほうへと歩みを進めれば、前を必死に走る小さい背中がびくりと震えた気がした。それにまた唇をゆがめてから、俺は四方手裏剣を取り出した。八方手裏剣じゃないところが擦り切れて残ったやさしさだろう。少し指先で遊んでから、軽く構えて、前に押し出すようにしてそれを放った。寸前でそれに気づいたが身を翻す。どうやら腕のあたりを掠めたらしい。あたりに漂う血の香りが濃くなって、俺は思わずべろりと唇を舐めた。




「おーい、、ちゃんとよけねぇと怪我するぞー」




俺、意外と手裏剣得意だから。声色に愉しさが滲み出ていたが、隠すこともないと思い当たる。ここは裏々々山だし、日は疾うに暮れている。もちろん人っ子一人見当たるはずもない。血の匂いに釣られて野犬やら狼やらが集まってきていたが、俺の気に当てられたのか姿は見えなかった。ああでもわざとを襲わせるのもいいかもしれない。それはそれで愉しそうだ。




「あっ」




消え入るような悲鳴とともにの身体が地面へと投げ出された。どうやら根に躓いたらしい。忍らしからぬ失態だが、片足が負傷していたら仕方ないだろう。の左足には俺の放った四方手裏剣や棒手裏剣がいくつか刺さっている。あわてて身体を起こそうともがくに、地面を軽く蹴って一気に近づいた。三間ほどあった距離はすぐにゼロに等しくなる。尻もちをついたの顔を覗き込めば、うるんだ瞳に月の光が反射した。




「なに? もうおしまいなの?」




ずい、と近づくと怯えたように後ずさるが、退路もすぐに断たれてしまった。とん、という軽い音とともにの背中は木の幹に預けられる。ざぁんねん。鬼ごっこにはもう飽きたよな?




「た、けや、」




月は忍者の敵とはよく言ったものだけれど、たまにはこんなに光がまぶしい夜もあっていいのかもしれない。地面の上に黒く散ったの血が奇麗だし、何よりのその怯えた瞳が俺を刺激して堪らない。あまりの快楽にぞわりと背筋が泡立った。の瞳は、闇に似ている。濡羽色でも漆黒でもなく、完全なる闇の色。それが、俺をとらえて離さない。ゆっくりと頬に手を添えると、まるで苦無でも突きつけられたかのようにの動きが止まった。そのまま、すうっと手を滑らせる。細い喉。片手で簡単に握りつぶしてしまえそうなほどよわっちいそれに、鼓動が早まるのがわかった。そのまま指をからめて、喉を締めあげたら、そうしたら、自分はもう彼を征服したと同じだ。欲望に指がピクリと疼いた。それに呼応するように、の息遣いが短く浅いものになる。半開きの唇が酷く欲情的だ。吸いついてしまおうか、それとも噛みついてしまおうか。悶悶と思考を巡らせていたら、ぷっくりとした桜色の唇が震えた。助けを求めるかのようなそれ。久々に聞く声だった。




「せ、仙蔵、さん、」




掠れたようなそれは、しかし確実に俺の鼓膜を振動させた。仙蔵、さん? へぇ、仙蔵、さん、ねぇ。心臓がどくりと嫌な音を立てて、体中の血液が凍りつくようだった。俺が纏う空気の変化を敏感に嗅ぎ取ったはサッと顔色を変える、が、もう遅い。ふーん、なるほど、仙蔵さん?




「立花先輩、じゃなくて、仙蔵さん? なにお前立花先輩のこと仙蔵さんって呼んでたの?」
「あ、」




震えた唇をぎゅっと噛んで、は目を見開いた。何が起こってるのかわからないが、どうやら俺の中の何かを踏んだことに気づいたらしい。揺れる瞳は俺を捉えたままだ。




「仙蔵さん、ねぇ。へーえ」
「たけ、や、どうし、」




後半は短い悲鳴にかき消されて、どうして、なのか、どうした、なのか俺には分からなかった。左足から苦無を一本引き抜いたせいで、びしゃりという音とともにぐん、と鉄の匂いが濃くなる。空気がざわついているのは狼たちの嗅覚がそれを捉えたからだろう。ククッと低く笑って、苦無についた血をべろりと舐めあげる。だぁめ。こいつはおれの獲物なの。誰にも、やらない。




「くっ!」
「!!」




ぴくりとの腕が動く。反射的に俺は上体を逸らした。礫がこめかみを掠めて、暗闇の中へと消えていった。生ぬるい液体が、頬を伝う感触。態勢を立て直しながら、身体をひねる。ガラ空きのの身体に、俺は左足を蹴り込んだ。




「か、はっ、」




ガードは間に合わなかったらしい。俺の蹴りは奇麗にの鳩尾に吸い込まれていった。くの字に身体を折ったが、うぇ、と嘔吐く音に続いて、びちゃびちゃと胃液が地面に散った。ああ、札取り合戦は午前から始まってたから、よく考えたら俺も昼飯食ってねぇわ。あー、腹減った。苦無を持った手で流れ出る血を拭う。いまだせき込むの髪を乱雑に掴みあげると、が呻き声を漏らした。




「いくら実戦経験が少ないからって、俺との実力差がわかんねぇほど莫迦じゃねぇだろ?」
「あ、ぐ、」
「なぁ、?」




喘ぐような息遣いが酷く愛おしい。胃酸のかおりが、どろりとした血の空気をかいくぐって鼻を刺激する。ふわりとした癖のある茶髪が視界に飛び込んできたと同時、俺の脳裏を焼けたような記憶が掠めた。秋のあの日、夕暮れの縁側に腰掛ける二人。頬を膨らませながらなにか呟いていると、それを見ながら幸せそうに笑う立花仙蔵。その長い髪を、むすりとした表情でが引っ張っている。くすりとわらってから、立花先輩がの髪を手に取るのだ。が呆けたような顔をしているうちに、二言三言呟いて、立花先輩はその唇での髪に触れたのだった。ああ、思い出しただけで手が震える。胸を掻き毟りたくなる衝動が、背骨を突き上げた。あのあと、あのあと、は顔を真っ赤に染めて、それを見た先輩が笑って、つられても笑って、その照れたような笑顔がとてもしあわせそうで、そうして、二人の唇は、




、この髪、」
「は、ぁっ」
「これ、お前の仙蔵さん、が、お気に入りだったよな」




言うが早いが、俺は右手を勢いよく振り下ろした。掠れたようなの音と、の柔らかな髪が血だまりに落ちるのは同時だった。奇麗な茶の髪が、血だまりに沈んで赤黒く染まるように、じわりじわりと俺の中の征服感が満たされていく。ともすれば嗤いすら零れてきそうだった。茫然と地を見つめるの前髪を掴んで無理やり顔を上げさせる。苦痛に歪んでいた顔が、俺と目を合わせた瞬間に恐怖に染まる。それがまた、俺を疼かせた。おもむろに苦無を握りしめ、それをゆっくりとの首筋に宛がった。ひゅ、とが息をのむのを肌で感じる。その見開かれた瞳に、俺は唇を寄せた。









つぷり。首の皮が破ける感触。の震えが伝わってきて、それが俺の中を波紋のように駆け巡った。俺はをどうしたいのだろうか。脳裏によぎるのは夕暮れのなかで照れたように笑う。笑わせてやりたいのだろうか。幸せにしてやりたいのだろうか。でも。ぺろりと顔に付いていた血液を舐めとる。でも、恐怖しているに言いようのない満足感を覚えているのも確かであった。身体を震わせるような快感を得ているのも確かであった。幸せにしたいのか、隷属させたいのか、殺したいのか、生かしたいのか。









べろり。襲いくる衝動に任せて、の眼球をゆっくりと舐めた。胸中では、ぐるぐるとどす黒いような、それでいて透明なような、形容しがたい感情が、ぐるぐると、とぐろを巻いている。




この感情に名前なんかなくていい。
だれもこの感情を理解しなくていい。理解なぞしてほしくもない。
この感情はおれだけがしっていればいい
この感情に名前など、ありはしない。




ああ、でも




あいしてる








これは恋慕に酷く似ている。
























喰い破る恋慕












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100225  下西 糺

お、おわったーーー^q^q^q^q^q^q^
難産すぎた。竹谷むずいーー!!
どうやら受け視点のほうが書きやすいみたいです
……ん? そうでもないかも!←