「え…? あれ?」




目の前の光景が信じられなくて、俺はぱちりぱちりと目を瞬かせた。そんな俺のしぐさが可笑しかったのであろう。先輩はくすりと一度笑ってから、きれいな笑顔で俺に問いかけた。 「雷蔵に用事?」 こくりと頷く。図書委員長である中在家長次先輩に、不破雷蔵先輩を呼んで来いと頼まれたため、俺は今五年の長屋まで足を運んでいた。なぜ五年の不破先輩の部屋にくのたまである先輩がいるのかというと、答えは簡単。先輩は、不破先輩の同室である鉢屋三郎先輩と恋仲にあるからだ。これは学園で公認なわけで、いまさらその事実に驚く人間などいはしない。俺が驚いたのは、




「雷蔵なら図書室に向かったよ。その前に兵助の部屋に行くって言ってたけど」
「そ、うっすか」
「…? どうしたの?」
「……その、」




俺の視線の意味を理解したのか、先輩は苦笑した。形の良い唇が開かれる。 「ここ最近、忍務で寝てないみたいなの」 そう言ってから先輩は視線を落とした。先輩の膝の上で、鉢屋先輩がすやすやと寝息をたてている。それがどれほどありえないことなのかくらいは、この俺にだってわかる。寝顔だなんて、同室の人間しか垣間見たことはないだろう。俺だって、学年全員の寝顔なんて見たことはない。ところがどうだろう。目の前の鉢屋先輩は、俺が部屋に一歩踏み入っているのにもかかわらず、先ほどから規則正しく寝息を立てているだけだった。五年生、ましてや実力は六年生にも劣らないと言われているあの鉢屋先輩が、まるで俺の気配に気づいていないかのように深い眠りについている。一言で言ってしまえば、ありえない。未だ状況を理解していない俺をちらと見てから、先輩は、鉢屋先輩の顔を覗き込んでまたくすりと笑った。その笑みが、記憶の水底から形容しがたい感情を引きずり出してきた。きり丸、と、優しい声で名前を呼ぶ母が、無言で頭を撫ぜる父が、いまの先輩のような温かい笑みを浮かべている。きっと、先輩と鉢屋先輩の間には俺の知ることのできない、信頼関係だとか、そういうたぐいのものがあるのだろう。目の前のそれが、酷くうらやましかった。疑うことを知らず、すべてを預けてしまえるようなそんな存在。裏切らず、自分のなにもかもを受け止めてくれるその場所を、俺はあの日に失った。




「きり丸、」




はっと顔をあげると、先輩は大きな瞳で俺をみつめた。と、次の瞬間それは悪戯に細められる。わざとらしくにっこりとほほ笑んでから、先輩はさらりと言い放った。




「一緒にねちゃおっか」




え?
俺が疑問符を投げかけるも、当の先輩は聞こえないふりをして鉢屋先輩に話しかける。 「三郎、ごめんね。ちょっと頭、おろすよ」 慎重に頭を持ち上げて床に下ろすと、鉢屋先輩はゆっくりと目を開けた。 「…?」 目の焦点が合ってない。まだきっと半分夢の中なのだろう。寝ぼけた鉢屋先輩に、先輩はきれいに微笑んだ。




「寒くなってきたからお布団出すね」




二回ほどまばたきしてから、鉢屋先輩は目を閉じた。んー、という唸り声は承諾の意だろうか。先輩は手慣れたように押し入れから掛け布団を取り出して、ゆっくりと鉢屋先輩にそれをかけた。そうしてから、自分も隣にもぐりこみこちらに向かって手をこまねいた。その瞳は悪戯に細められている。どくりと心臓が跳ねた。




「ほら、はやくはやく」
「ちょ、先輩、俺、あの……っ、」
「いいから来なさい」
「でも……」
「きり丸、」




小声の口論を制したのはふくれっ面の先輩だった。均衡を保っていた天秤は、あっさりと傾いた。委員会の仕事はもう終わったし、この後の予定もないし、そういえばいますごく眠い、し。なによりもまず先輩に逆らえるはずがない。心の中でひとしきり言い訳してから、できるだけ足音を殺して近付いた。隣に座ると、ここに入れとでも言うように布団を持ち上げる先輩。少し躊躇して、もごもごとお邪魔しますと唱えてから、俺は先輩の隣にもぐりこんだ。出したばかりの布団はそれほど温かくはなく、思わず身震いすると、それに気づいた先輩が俺の至近距離で笑う。よく考えてみれば、お邪魔にも程がある。久々の睡眠を恋人ととっていたはずなのに、目が覚めたら餓鬼が一人紛れ込んでいたのだ。しかも男。うわ、それって結構まずいかも。




「せんぱい、やっぱり、おれ、」
「しー。三郎が目をさましちゃう」




囁くように告げると、先輩がそれを遮った。すらりとながい人差し指が、ふわりと俺の唇に触れる。とたんに先輩との距離を認識して、顔に熱が集まった。それに気付かない先輩は、にこりと笑って俺の髪を撫ぜる。二、三度てのひらで髪を触ってから、その手は俺の肩までおりてきた。ぽん、ぽん、とリズムよく先輩が俺の肩をたたく。




「せんぱい、」




おれ、子どもじゃないっすよ。その科白は欠伸によって遮られてしまった。瞼が、抗いがたい力によって下りてくる。それを防ごうとまばたきをするのだけれど、すぐさま力に呑まれてしまう。数秒の格闘の末、俺の視界は真っ暗になってしまった。くすりと先輩が、また、笑う気配がする。




「おやすみ、きり丸」 いい夢を。




遠のく意識の片隅で、先輩が呟いた気がした。
























勿忘草色の感情


(ここはひどくあたたかくて)(どうしてか俺は泣きたくなった)











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100908  下西 糺

あとがき