「ねぇ兵助」 虫の音に交じって、ぽつりと勘右衛門が呟いた。俺は、手元の書物から目を上げて彼を見遣る。鏡の前に座る勘右衛門は、こちらをちらとも見ずに、櫛で髪を梳かしている。風呂からあがったばかりなのに、その身を包んでいるのは濃紺の忍び装束だった。ああ、今日も彼は、あの先輩のところへ行くらしい。 「しんでもいいってくらい人をすきになったこと、ある?」 ぱちり。おれがひとつまばたきをする間にも、勘右衛門は念入りに髪を梳いていた。彼の特徴的な髪が、ふわりと背中へと広がる。 「しんでもいい?」 しんでもいい。それは難しい質問だな。俺は口の中で小さく唸った。その人のために死ねるかと訊かれたら、死ねると断言できる人はいる。大切な人を護るためならば、この命など惜しくはない。だが、しんでもいい? 「俺は、ある」 勘右衛門は短く、言い放った。鏡の中の己をじいとみつめながら呟くその姿は、一種異様な何かを纏っている。ぱちりぱちりと瞬きをすると、それは瞬く間に俺の目では識別できなくなった。 「そうか」 静かに俺がそう告げたのと、勘右衛門が櫛を鏡台に置いたのとはほぼ同時だった。もう一度鏡を覗き込み、勘右衛門は立ち上がる。高い位置で括られた髪が、それに合わせて揺れた。 「行ってくるね、兵助」 先に寝てていいよ。にこりと笑って、彼は障子を閉めた。遠ざかる足音を聞きながら、俺は残された彼の櫛を見つめる。何かがおかしい。何かがおかしいのはわかるが、何がおかしいのかはわからない。同室の親友が、先輩を慕っているだけ。それだけなのだ。ただ、それだけ。だが、胸を重苦しいものが締め付ける。頭が重い。それを振り払うように頭を振ると、毛先に残っていた水滴が畳に落ちた。それを見つめながら、何の気はなしに考える。今日、彼は帰ってくるのだろうか。いつもならば、夜が明け始める前には帰ってきている。いつもならば? いつもと何も変わらないではないか。何の変哲もない日常、の、はず、だ。頭を過るのは先ほどの勘右衛門だった。「しんでもいいってくらい人をすきになったこと、ある?」ぽたり。滴り落ちた水滴が、畳を黒く染めた。 ◆◆◆ 「は、ぁっ」 振り上げていた木刀を下ろし、俺は一つ大きく息をした。額を、首筋を、汗が伝うのがわかる。岩の上に放っておいた手ぬぐいを掴み、乱雑に汗を拭きとる。びゅう、と乾いた風が体を撫ぜていった。四半刻ほどまえからじいとこちらを見つめている尾浜は、一言も発さずに木の枝に座っていた。投げ出された脚が微かに揺れている。毎度のことであった。いつからかなど、とうの昔に忘れてしまった。気付いたら、尾浜は俺の稽古をじいと見つめ続けていた。その行動には、肚を熱くするような苛立ちよりも、背筋を寒くするような薄気味悪さがあった。真暗な山の中で、尾浜の瞳だけがぎらりと光っている。 「先輩」 「……今日は冷える。早く帰れよ」 「俺のこと殺してください」 何度言われたかわからない科白なのに、俺の背筋はそのたびぞくりと粟立つ。顔色どころか声色すら変えずに、尾浜はそう言い放った。内容に反してさらりと紡がれるそれは、しかしねっとりと俺に絡みつく。一瞬息が詰まったのを、尾浜は勘づいただろうか? 気付かれないように細心の注意をしながら、息を吐き出す。零れた声は冷たかった。 「聞こえなかったのか。早く帰れ」 「どうして無視するんですか」 無視しないで下さい、よ。たん、っと軽い音を立てて、尾浜は枝から飛び降りた。しなった枝から、乾いた葉が数枚、はらりと落ちる。俺との距離を詰めた尾浜は、そのまま岩の上に座り込んだ。立てた右ひざを抱きながら、俺から目を放さない。先に視線をそらしたのは俺のほうだった。それでも、ひしひしと感じる視線を無視できなくて、取り繕うように乱れた髪を直すため、髪紐を解いた。びゅう、とまた生温かい風が吹いて、火照った頬をさましていく。俺の一挙一動を、尾浜は食い入るように見つめていた。無言の空間は酷く居心地が悪くて、俺は無意識に話題を探してしまう。 「尾浜は、」 「はい」 「……いや、なんでもない」 どうして俺に殺されたい。 口から零れ出る前に、俺はその言葉を飲み込んだ。聞いてどうする。聞いたところで結局、尾浜に手をかけることなどありえない。何も生みはしない質問だ。それでも、この質問は、ずっとずっと、尾浜が殺してくれと懇願するようになってから、頭の片隅でいつも燻っていた。しかし、聞くわけにはいかなかったのだ。ぐ、と口を真一文字に引きしめる。それを見つめる尾浜はくりくりとした目を見開いてから、はぐらかされたと気付いたのか頬を膨らませる。視界の端でそれを確認しながら、しかし俺の視線は足元に張り付けられたままだった。空気が澄んでいるのか、三日月にも関わらず外は明るい。ただ、光の届かない森の中だけが、ぽっかりと闇に包まれている。ぞわり。何かが背筋を這っていく。ああ、今日はどうしてこうも胸が騒ぐのだろうか。キュ、と髪を結びなおしてから、尾浜に向き直る。 「俺は、帰る」 「え? もう、ですか?」 「ああ。……お前はどうする?」 「……俺が、いるからですか?」 初めて、尾浜の声のトーンが変化した。思わず、尾浜の顔を凝視してしまう。伏せられた瞳。長いまつげを震わせながら、悲鳴を吐き出すように尾浜は呟く。 「俺がいるから、先輩は帰っちゃうんですか? 俺がいると、先輩の稽古の邪魔になりますか? 俺は、おれは、先輩にとって、邪魔、なんですか?」 「尾浜、」 はいそうです、などと、気軽に言えるような雰囲気では毛頭なかった。泣き出しそうな尾浜は、まるで胸が痛むとでも言うように、きつく自身の装束を握り締めている。力をこめすぎているのであろう白い右手が、小さく震えていた。一体全体、俺にどうしろというのだ。尾浜が何を言おうとも、俺が尾浜を手にかけることなどありえない。そうはっきりと伝えればよいのだろうか。いつも曖昧に、はぐらかしてきたからこのようなことになっているのだろうか。どうしたらいいのか、俺自身にもわからなかった。「尾浜、」彼の名前を呟こうとした矢先、俯いた尾浜が口を開いた。 「先輩、」 「……なんだ?」 「先輩には、妹さんが、いましたね」 ちいさい、むっつくらいの。 ぞわり、冷たくて湿った何かが、俺の背中を駆けていった。ぶわりと冷や汗が滲み出るのを感じる。耳元で心臓が唸っているようだった。どくりどくりと脈打つそれに、最悪の事態しか想像できない。這いずり回る悪寒。 「それ、が、どうした」 奇妙に裏返った声に、尾浜は顔を上げる。瞳がかち合った瞬間、思わずひゅ、と息を吸い込んでしまった。吊り上げられ、歪められた唇。暗闇の中で、ニィ、と三日月のように細まった眼。闇のように真黒なその瞳には狂気しか映っていない。 「せんぱい、」 「や、めろ……」 「もし、ですよ?」 「やめろっ!!」 もし、俺が先輩の妹さん、殺したらどうなりますか? 気づいたら俺は岩から尾浜を引き摺り下ろし、地面へと押し倒していた。持っていた木刀は、寸分の狂いもなく尾浜の咽元へと突きつけられていた。あとすこし、あと少し力を込めれば、その木刀は容易く尾浜の頚椎を破壊するだろう。ハッハッという短い息が己の唇の隙間から漏れる。耳元ではあいかわらず心臓が呻いていて、それ以外の音なぞ聞こえもしなかった。ぽたり、俺の汗が尾浜の頬に落ちる。「、先輩、」目を閉じてそれをぺろりと舌で舐め取った尾浜が、にこりと微笑む。 おれをころしてください 尾浜が、何を言おうとも、俺が、尾浜を手にかける、こと、など、 |