ああ、そういえば初めてのデートは海だったなあ。 がたん、ごとん。電車に揺られながらそんなことを思い出した。狂うことのないリズム、窓の景色は流れる様に消えていく。もう冬が近いからだろう、外は薄暗く、家々の光が現れては窓枠の外へ流れ去っていった。乗客はまばらだった。この時間は、帰宅するサラリーマンであふれかえっているのが通例だが、上り線はそれほど混んではいないのだ。車両の隅っこ、三人がけの座席に二人で座るのも、珍しくはない、いつもの光景。わたしは部活に入っていないけれど、彼の部活が終わるのを待っているとこの時間帯になるのだった。電車がだんだんとスピードを落として、停車駅を告げるアナウンスが流れる。完全に止まった電車、向かいの扉が開くと、ぴゅう、と少し冷えた空気が入り込む。隣の彼は少しも動きはしなかった。 「降りないの?」 「家まで送る」 ぴくり、彼の手が震えた気がしたのは気のせいだろうか。電子音と共に扉は閉まり、ゆっくりと景色が流れ出す。お互いの最寄り駅はみっつ違う。彼の定期範囲外なのに、大丈夫なのかな。馬鹿なわたしはそんなことを考える。何か考えていないと、頭が混乱してしまいそうだ。なにかを考えていないと。雅治のほうを見ることもできず、かといって目を瞑ってしまえるほど度胸のないわたしは、やっぱり見慣れた夜の風景を見つめるしかなかった。それでも、向かいの窓に映るのはわたしたちの姿なのだから、いたたまれない。どうしてこういうときに限って、乗客が少ないのだろうか。目に入ってしまう光景。わたしの隣に座っている雅治は、俯いているのか表情がまったく見えなかった。電車が揺れるたびに、きらきらと光る銀髪もふわりと揺れる。もうこれが見られなくなるのだな、と思うと、ちくり、と胸の奥が痛んだ。そしてすぐさま、後悔が押し寄せてくる。ばか。わたしのばか。自分から言ったくせに、わたしなんて、胸が痛む価値もない。後悔というよりは自責の念といったほうが正しい気がした。ガラスに映る、しかめっ面のわたし。アナウンスが、下車駅を告げる。わたしたちは無言で立ちあがった。 「さ、む、」 沈黙に耐えきれずに、独り言のような声を漏らしたのは、駅を出てだいぶ歩いてからだった。改札を通るときに放されたてのひらは、当たり前のように繋ぎなおされた。それにどきりとしてしまった自分は、一体どうしたいのだろう。自分から別れを切り出したくせに。 「……ん、寒いのう」 ぽつり、と呟くように彼が返してきた。そういえば、彼は寒いのも暑いのも苦手だったのではないか。去年の冬は、まだ付き合っていなかったけれど、いつもマフラーをぐるぐると巻いていた、ような気が、する。暑いのが嫌いだからと、デートといえば屋内がほとんどだった今年の夏。部活の合間を縫って、疲れてるだろうに、嬉しくて仕方がなかった。思い出は色褪せるものである。雅治と過ごした、そんな日常も、いつかは思い出せないほどに掠れてしまうのだろうか。それは、すこしさみしい気がした。ああ、なんて自分勝手で、最低な女なんだろう、わたしは。 「まさはる、」 ひとつの電灯の下、わたしは立ち止まる。半歩後ろで、雅治も歩みを止めた。あと数メートルも歩けば、家につく。彼が私を家まで送ってくれる時は、この電灯の下でサヨナラをするのが約束だった。上がって行ったら、とわたしはいつも言うのだけれども、ここでいい、と雅治がかたくなに譲らないのだ。遠くに家の明かりが見える。さよならの、あの甘いキスは、もうない。 「……」 「送ってくれて、ありがとう」 「、」 「じゃあね、」 雅治の顔が見れなくて、俯いたまま向き合った。一方的に別れの言葉を突き付けて去ろうとしたが、それが許されるはずもない。繋いだてのひら、掴まれるように絡まる指先に力が込められて、痛い。その訴えは、、という泣きそうな声に遮られる。 「もう、あかんのか」 静かで、悲痛な叫びだった。 「俺が悪いんなら、なおすけぇ、」 「ちがうっ」 反射的に叫ぶような声が飛び出した。鼻の奥がつんとして、目頭があつくなる。 「ちがう、の」 違う、違うんだよ。君が悪いわけじゃない。雅治が悪いわけじゃない。だって、雅治は、かっこよくて、あたまもよくて、やきもちやきさんで、実はすごく傷つきやすくて、それでいてすごく、すっごくやさしいひとなんだよ。雅治が悪いわけじゃない。じゃあ、どうしてわたしは雅治と別れてしまうの? だからこそ、別れなきゃいけないの。だって、雅治はこんなにもすごいひとなのに、わたしが、中途半端なわたしが、彼を独り占めしていいはずがない。わかってる、これは、わたしの、エゴ、だ。 「、、こっち見んしゃい」 ふるふる、と首を振った。雅治はゆっくりとわたしの頬に手をあてがう。促されるままに顔を上げると、こちらをじっと見つめる雅治と目があった。 「まさ、はる」 「……すまん。そんなつらそうな顔、させとうなかった」 見つめ合うことなどできるわけがなくて、わたしは視線を彼の胸元へと移す。ちがう、つらそうな顔してるのは、雅治のほうだよ。ほんと、さいあくだ、わたし。自分で決めたくせに、逃げてる。キリキリと、胸が締め付けられるようだった。ううん、もっと、彼のほうが、もっと、 「……もう、終わりなんじゃな」 沈痛な、声だった。わたしは、耐えられなくてさらに視線を落とす。アスファルトにわたしと彼の影が色濃く落ちている。真暗な中で、ひとつの光にあたるふたり。こんなに近くに居るのに、どうして遠いんだろう。まるで、空に浮かぶ星みたいだ。宇宙という海に浮かぶ、ちっぽけな星みたい。そういえば、告白されたのが海だった。まだ肌寒い、春の海。あのときも、まるで取り残された星みたいに、わたしたちは二人きりだったのだ。春の夜、砂浜も、海も、空も、全部が真暗で、まるで宇宙みたいだった。聞こえるのは波の音と、お互いの息遣いと、激しく震える自分の心臓だけ。いまと、おんなじくらいの距離で、わたしたちはみつめあって、そして、好きだ、と告げ、抱きしめあったのだった。あのときの体温は、今でも思い出せるのに。どうして、いったい何が変わってしまったのだろう。 「、」 好いとうよ。 囁かれるそれは痛いくらいに優しかった。ぽたり、ぽたりと足もとに広がる、闇。ぽたり、ぽたり、少しずつ、少しずつ、わたしたちは変化していってしまうのだ。不変なんてもの、この世には存在しない。どうしてだろう、当たり前のそれが、ひどく哀しかった。 「好いとう」 震える声。零れ落ちる様に響くそれが、さざ波のように寄せては返すのを、わたしは感じていた。ああ、海が呼んでいる。 |