「先輩、ほんま数学苦手なんすね」
「う、うぐぅ。だ、だって、わたし、文系、」
「これ、俺でも解けますわ」




 呆れた、とばかりに溜息をつく財前くん。言葉につまってチラリと彼を見上げると、細められた眼と正面から視線がかちあった。ニイ、と釣り上がる唇。くそう、遊ばれている。




「先輩、背ぇちっこいぶん、脳味噌に栄養いったんとちゃいますのん? そう言うてましたやん」
「う、うるさい!」
「ほんっま、先輩の脳味噌みてみたいっすわ」




 からかいを含んだ、ともすれば笑いをかみ殺しているかのような声に、何も反論できなくて悔しい。財前くんばかり気にしていたら、課題なんて最後まで終わらないんじゃないの。無視、無視しよう。未だにやにやとわたしを見つめている財前くんから、課題のプリントへと視線を落とす。だいたい、当番のわたしが図書室に居るのはわかるけど、どうして当番じゃない財前くんがここにいるのだろうか。部活、ないのかな。でも、着ているのはユニフォームだしなぁ。シャープペンシルを持ったままそんなことを考えていたら、視界に骨ばった指が飛び込んできた。大きな爪と、細くて長いのにごつごつとした人差指。こつこつと指先で問題を叩いてから、「これ?」と優しく問うてくる。




「これはさっきの公式使えば一発ですわ」
「さっきのって、これの?」
「ん」
「えっと、これが、こうで、」




 わ、うそ、すごい、とけた!




「財前くん!!」




 思わず勢いよく顔を上げる。至近距離で財前くんの顔を見つめると、彼の眼が珍しく見開かれた。




「ありがとう!!!」




 えへへ、と嬉しくなって、にやけた顔でお礼を言う。と、カウンターに身を乗り出していた財前くんが、身体を起こす。顔を明後日の方向にそらしながら、低くぶっきらぼうに呟いた。




「別に」




 右手が、口元を隠すように覆っているため、声は聞きとりづらかったが、それも照れ隠しだろう。わかったら余計に、目の前の後輩がかわいらしく見える。わたしは、ゆるんだ口元を意識しながらも、それを隠そうとはしない。自然と笑みがこぼれる。うん、わたし、いつも毒を吐いてる財前くんが、本当はやさしいこと、よく知ってるよ。




「すごいねー財前くん」
「別に……どうってこと、」
「さすがモテ男だね! 女の子がほっとかないわけだよ!」




 次の瞬間、かちあった財前くんの瞳に、思わず、息を呑んだ。睨んでいるわけではないのに、わたしの奥底までを、すべてを、見透かされしまいそうで、こわかった。




「ざ、ざいぜ、ん、くん?」
「……別に、」




 別に、好きでもない女に言い寄られても興味ないっすわ。
 むすりと呟いてからぷいと顔を逸らされる。え、お、怒らせちゃったのかな? 財前くんの横顔を無言でみつめる。どうしよう、怒らせるつもりなんて、ぜんぜん、なかったのに。わたしの視線に気づいているのであろう財前くんは、しかし、こちらをちらとも見ようとしない。ざ、ざいぜんくん。声が震えるのがわかった。




「財前くん、怒った?」
「……」
「ざいぜん、くんってば、」
「……っぷ」




 え?
 もうこらえきれない、といったように、財前くんはいきなり噴き出した。ぽかんとそれを見つめるわたしなんてお構いなし、口元とおなかをおさえているけれども、くくく、という笑い声が漏れてくる。え、なに、どゆこと?




「先輩、くち、空いてる」




 ひっでー顔。
 まだ笑い冷めやらぬ財前くんは、大声で笑い出してしまいそうなのを必死で押さえているようだったが、もう笑いをこらえる意味、ないんじゃないの。あまり敏感ではないわたしだけれど、これくらい気付く。馬鹿にされている。間違いなく、全力で、馬鹿にされている。狼狽していたわたしがそんなに面白かったらしい財前くんは、まだ笑っている。もちろん、わたしは、一ミリだっておもしろくない。




「く、くくっ」
「もういいっ。財前くんなんてしらない」
「ほら、先輩、怒らんとってください」




 笑いながら言う科白じゃないよ、財前くん。今度はわたしがむすりと黙りこむ番だった。手元の問題を睨みつけながら、ふん、と鼻を鳴らす。ようやっと笑いの波がおさまった財前くんは、わたしの頭にぽんと手を乗せた。楽しそうな声が上から降ってくる。くそお、まだ楽しんでいる。財前くんを見なくても、その顔は意地悪く笑っていることが想像できてしまった。




「せんぱい?」
「知りません」
「怒ってはるんですか」
「知りません」
「問五、答えちゃいますよ」
「…………」




 ち、ちくしょう!! これだから理系は!!!
 財前くんが指摘した問題を、睨みつけるかのように凝視した。うーん、どこから違うんだろう。最初の公式はあってるはずなのに。それとも、どこかで簡単な計算をミスしてるとか。




「……先輩かて、思いません?」
「んー?」




 あ、わかった、ここの符号が間違ってるんだ。だからここの計算が間違ってるわけだから、こっちの式が……、




「白石部長以外に、言い寄られても」困るやろ。
「へっ、」




 ぱき。軽い音がして、シャープペンシルの芯が折れた。ノートの隅に飛んでいったけれども、そんなことを気にするだけの余裕が、わたしには、ない。財前くんの口から飛び出してきた名前に、どくりと心臓が脈打つのがわかった。え、いま、いったい、なに、が、




「自分ほんまに正直っすね。見ててすぐわかりますわ」
「え、財前くん、な、なにを言って、」
「好きなんやろ? 部長のこと」




 好き。その二文字が耳に飛び込んでくると同時に、かあ、と顔がほてるのが自分でもわかった。好き、だなんて、そんなストレートに指摘されたのは初めてだった。白石くんとは去年同じクラスだったけれども、話をしたことなんて、数えるくらいしかない。友人たちでさえ、 それ に気付きなどしなかったのに。どうして、どうして、財前くんが、




「ざ、財前くん、あの、ね、その……」
「まどろっこしい。はっきり言うたらええやないですの」
「ち、違っ、あ、いや、違くは、ないけど、あの、」
「好きなんやろ、部長のこと」




 先ほどと同じ科白。今度は問いかけではなく、確認を孕んだ響きだった。財前くんはわたしから視線をそらすことなく、じい、とわたしを見つめている。それに耐えきれなくなったわたしは、俯くようにしてその視線から逃げた。そのまま、ゆっくりと、ちいさく頷く。




「はあ、ほんま先輩って、わかりやすすぎですわ」
「そ、そんなこと、な、」
「どうして部長、気付かへんのやろ」
「う、あ、」




 俺やったら、すぐに気付くんに。
 吐き捨てるように呟かれたその言葉が、あまりにも冷たい空気を纏っていて。思わず顔を上げると、財前君の鋭い瞳と視線がかち合った。あまりにも澄んだ、まっすぐなそれに、息が止まる。逸らすことなんて、できるはずが、ない。




「先輩も、気付いてはるんやろ?」
「な、にが……?」
「しらばっくれるんですか」
「ざいぜんく、」




 声は吸い込まれて消えた。突然のことに、目を閉じる暇すらなかった。ぼやけてしまうほど近くに、財前くんの顔がある。閉じられた眼、睫毛の長さが目を引いた。
 キス、されている。




「ん、む」




 抵抗しようにも、いつの間にか腕ごと抱きしめられていて、肩を押すどころか振りほどくことすらできなかった。首を振って逃げようとしても、上から覆いかぶさるようにキスをされているせいで、身動きすらできない。なんで、どうして、キス、なんて、




「ほんま、腹立つ」




 唇が離れたほんの一瞬の間に、呻くように呟いた。ぎらぎらと異彩を放つ財前くんの瞳が、わたしを捕らえてはなさない。違う。“なんで”なんて、そんなのうそだ。わたしはよく知っている。たとえば、財前くんの優しさが、特定の人にしかむけられないのも、財前くんがわたしと話すときの、あの柔らかいまなざしの理由も、今日、いまここに、財前くんがいるその理由も。知ってて、全部知ってて、わたしは知らないふりをしてきた。だって、財前くんになにかもらっても、わたしは返すことなどできやしないのである。そのくせ、わたしは財前くんを突き放すようなことは一度たりともしなかった。ああ、わたしは、ほんとうに、




「財前、く、」
「うっさい」
「あの、」
「だまれ」




 ぎり、と掴まれた腕が軋んだ。それは、わたしを責めるようであり、行き場のない感情を必死で抑え込むような行動だった。財前くんの、真黒な瞳が、わたしを捉えて離さない。呻るように、彼は呟いた。




「先輩、ほんと、酷い人っすわ」




 好きやで。
 そう零した彼の瞳が、静かに濡れているような気がした。
























幼稚な恋の凶弾








Title by 模倣心中











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111128  下西 糺

ちょいと不完全燃焼(・ω・`)