「なー、お前今日何の日か知ってる?」 パンっと洗濯物を振ると、小気味よい音が出る。今日は天気もいいし、きっと夕方にはからりと乾いているだろう。柔軟剤の匂いが鼻をついて、思わず笑みがこぼれた。うん、やっぱりこの匂い、好きだなあ。 「おーい、さァん、聞いてる?」 「え、あ、ごめん。なぁに?」 窓際、いつもの定位置に座っている銀ちゃんを振りかえると、銀ちゃんは拗ねたような、不機嫌なような顔をして、唇を尖らせた。素足をデスクの上に乗せるという行儀の悪いことをしているけれど、言ったって聞かないことはすでに知っているから、なにもいわない。もう木曜日なんだから、とっくに読み飽きたであろうジャンプを膝の上に乗せて、ガシガシと銀ちゃんは頭を掻いた。 「だからよ、今日何の日だか知ってるか?」 「え、今日?」 「そ、今日」 と、言われましても。別に誰かの誕生日なわけでもないし、家賃の支払いは月末だし、わたしの給料日はまだまだ先だし。ついこの間のバレンタインデーには、ちゃんと銀ちゃんにチョコをあげたから、なにも問題はないはずなんだけど。困惑が顔に出ていたのか、銀ちゃんはあーとかうーとか意味のないうめき声を漏らしてから、「猫の日だよ」と半ば吐き捨てる様に呟いた。もう態度に対しては突っ込むまい。 「ねこのひ?」 「ほら、2月22日、にゃんにゃんにゃん、だろ?」 「だろ? って言われても、わからないよ」「いや、わかれよ」「いやいやわかんないって」「いやいやいや、わかんなくてもわかれよ」 意味のないやり取りの合間に、わたしが洗濯物を干す音が響く。銀ちゃんの視線がまたジャンプにいってしまったので、わたしも洗濯物に集中することにした。それにしても、銀ちゃんが意味のないやり取りをするだなんて、珍しいこともあるものだ。基本ものぐさな銀ちゃんとの会話は、「リモコンとって」「今日の飯なに?」「ティッシュとって」「パチンコ行ってくる」「そこのジャンプとって」 って、自分で動けよ。このやろぉ。思い出したらムカムカしてきたから、洗濯物に八つ当たりするようにパンパンと叩いた。まあ、要するに極度のものぐさな銀ちゃんは、好き好んで会話などしないのだ。いつもであれば。だから、今日の銀ちゃんは可笑しい。ぜったいに、おかしい。ちらり、と銀ちゃんを盗み見る。ジャンプを見つめている銀ちゃんは、またがしがしと頭を掻いた。それから、顔をあげる。ばちりと正面から目が合って、わたしの心臓はどくりと飛び跳ねた。銀ちゃん自身もたじろいだのか、視線が宙を彷徨う。そのあからさまな態度に、わたしの眉間にしわが寄る。おかしい。ぜったいに、これは、なにかを、かくして、いる。 「なー」 「なに」 「なんかさ、お前って猫みたいだよな」 …………はァ? 冷たい声は困惑を孕んでいた。突拍子もない話題である。いや、さっきの話の続き、なのだろうか? 銀ちゃんの視線はやっぱり手元のジャンプだったけれども、その瞳はこれっぽっちも動いていない。それだけわたしと目をあわせたくないらしい。今度は、苛立ちよりも戸惑いが優った。隠しておきたいことがあれば、黙っていればいいのだ。わざわざ意味のない会話を繰り広げる必要もない。いったい何がしたいんだ、この男。 「どうしたの、銀ちゃん。拾い食いでもした?」 「いや、なんつーかお前って野良猫みたいだなって、思ってよ」 当惑したわたしは、銀ちゃんのトランクスを握ったまま、彼を凝視するしかなかった。え、なにそれどーゆーことですか。 「自由気ままってこと?」 「いや、そうじゃないっつーか、なんつーか、」 あ゛―――――!!! 奇声をあげたかと思えば、ガシガシと頭を掻いていた銀ちゃんは、ばんっとデスクを叩きながらいきなり立ち上がった。大きな音にびくりとして、おもわず銀ちゃんのトランクスを取り落としそうになる。銀ちゃんの膝の上に乗っていたジャンプが、ばさりと床に落ちる音。それきり室内は無音になった。 「え、ぎ、銀ちゃん?」 「なァ、、チャン、」 「え、あ、はい?」 「そろそろ野良猫なんざやめちまってさ、」 ウチに来ませんか、お嬢さん。 それがプロポーズだと気付くのに、優に十数秒。わたしは、銀ちゃんを見つめながら、ぼろぼろと涙をこぼしていた。ぎょっと目を見開く銀ちゃんが、ゆらゆらと水の向こう側に消える。焦ったようになにかぺらぺらとしゃべりながら、こちらに走り寄ってきてくれたけど、混乱しているわたしには何一つ聞き取ることができなかった。うめき声の様な嗚咽が喉からせりあがってくる。わたしは、持っていた布に顔を押し付けた。 「ちょ、オイオイなんで泣くの?! 今のはアレだよね、駆け寄って抱きついてくれるとこじゃねェの?!」 「うううぐぐう」 「いやなに言ってるかわかんねーって! つか、それ、おま、銀さんのパンツなんだけど!」 「ふううぐ、ずび、」 「鼻水つけるなァァァアアアア!!!!」 わたしの脳天をチョップした手は、一瞬戸惑ってから、わたしの背中にまわった。壊さないように、優しく、おそるおそる、力が込められる。「なァ、、」銀ちゃんの声も、てのひらも、全部がふるえていた。銀ちゃんの匂いを、胸いっぱいに吸い込む。ああ、わたし、この匂いが一番すき、 「返事、聞きてェんだけど」 「し、知ってる、くせ、に、」 顔をあげて、睨みつけるように見つめると、顔を真っ赤にした銀ちゃんが苦笑した。「ひでー顔」って言いながら、やさしく涙をぬぐってくれる。その指があったかくて、すり寄るように目を閉じた。やっぱり猫みたいだ、って銀ちゃんが笑うから、つられてわたしも笑ってしまった。「どこにも行くなよ」うん、行かないよ。だってここが、わたしの家だから。 |