人間の身体は、6割が水分でできてるんだったよな。
 ぼろぼろと流れる水滴を見つめながら、そんなことを考えた。血液は9割が水だし、脳味噌だって8割は水分でできている。そして、体内の水分の内、2割を失ってしまうと、その人間は永遠に目覚めないのだという。チェリーピンクのハンカチをきつく握りしめたまま、目の前の女は大きく鼻を啜った。はしたない、と咎める者などこの部屋にいない。握りっぱなしのハンカチと同じ色をした眼は伏せられ、ぱちりぱちりと瞬きをするたび、水滴が彼女の頬を伝った。




「おい、」




 声をかけたはいいものの、なにを言えばいいのかわからずに口を噤む。そんなおれには目もくれず、部屋の隅に追いやられたソファの上で、ミウラは泣き続けている。日の当らないこの部屋は薄暗い。電気をつけるのも憚られ、おれは溜息をもらした。俯いた視線の先、ゴミ箱のなかでぐしゃりとつぶれた、プレゼントの箱。それを視界に入れてしまって、思わず眉間に皺が寄る。ちくしょう。無理やり視線を引きはがしても、目に映るのは泣いた女だから手に負えない。だからやめろと言ったんだ。口から飛び出そうとした言葉をすんでのところで飲み込む。酷く荒んだ想いが、体中を渦巻いていた。いっそ疵付けてやりたい。欲望は呑みこんだ。




「みっともねーな」




 溜息とともに零れた声は、思いのほか冷たくて少し驚いた。眉間に皺を寄せたまま、ちらと彼女の表情を窺う。おれの声など、全く聞こえなかったかのように、女はまた大きく鼻を啜った。流れだす水分。




「ほ、ほっといて、くだ、さ」
「アホか。放っておいて欲しいんならこんなとこで泣いてんじゃねーよ」




 こんなとこで。研究室などではなく、どこへでもいってしまえばいいのだ。おれの、見えないところまで。おれの手が、届かないところまで。そこまで逃げてしまえばいいのに、この女はそれをしない。無意識に求めているのに違いないのだ。誰かの助けを。最低だ。どれだけおれを弄べば気が済む。いっそズタズタにしてやりたい。疵付けてやりたい。そうやって、おれの見えるところでフラフラするくせに、指先ですら触れることを拒むその態度に、はらわたが煮えくりかえりそうになる。脳内は、疾うに煮えたぎっている。激情のままに拳を振るってしまわないのが奇跡に思えた。




「ッ、」




 息を止めたような、奇妙な声をもらしながら、ミウラは立ち上がった。その拍子に、膝にかけていたブランケットが床へと落ちた。それを拾うそぶりも見せず、俯いたままのミウラは一言「すみません」と呟いた。鼻の詰まったようなその声。そのままおれの隣を駆け抜けようとする彼女の、二の腕を反射的に掴んだ。ビクリと身体を震わせてから、抵抗するように弱く腕を引かれる。




「は、なして、くだ」
「女はずりィよな。泣けば済むと思ってる」




 またびくりとミウラの身体が震えた。おれの心臓が、鷲掴みにされたかのようにじくりと痛んだ。




「受け取ってもらえないってわかってただろ。どうして渡そうとした」
、さんには、関係、ありま、せ、」
「そうかよ」




 関係ない。その科白にカッと頭が熱くなった。突き刺さるような言葉は、そんな脳内とは裏腹に鋭く、冷たい。ぎりぎりと手に力がこもるのを、止めることすらできない。どうして渡そうとした。ファミリーの構成員とはいえ、名前も知られていないような下っ端のプレゼントを、ボスが受け取るはずがないだろう。この女は、莫迦だ。救いようがない。ゴミ箱に視線を移すと、付属されたカードが目に入る。Buon Compleanno! の文字がかろうじて読みとれた。なにが「オメデトウ!」だ。受け取ってもらえると思ったのか。自身が特別だと思いたかったのか。そんなことを考えていたのであろうミウラに、腹が、立つ。




「ただのファミリー構成員に誕生日プレゼントをもらったところで、それを身につけるわけにも、ましてや礼を返すわけにもいかない。ただの迷惑にしかならない。わかってただろ?」




 ミウラの細い腕が震えた。零れ落ちる言葉は銃弾となって彼女の心へと突き刺さっていく。畜生。これではただの八つ当たりではないか。クソ野郎。ボスに直接言えない不満を、言葉をかえてミウラにぶつけているだけだ。ボスと彼女の関係なんてわかりもしないし、過去に何があったかと言う事実すらなにも知らない。それでも、彼女へと向けるボスの視線に、気付かないほど莫迦なおれではない。ああ、畜生。腹が立つ。腹が立ちすぎて、頭がガンガンと痛んだ。本当の気持ちを押し隠して、我関せずを貫くボスにも、隠しきれずに淡い期待を抱いて、裏切られて泣いているミウラにも、世界でたった一人護りたい女の涙を、止めるすべすら知らない己自身にも。




「い、いた、さ、痛い、」
「うるせェよ」




 細い腕を思い切り引きよせて、正面から抱きしめた。回した左手は彼女の後頭部を押さえ、無理やりおれの肩口に顔を埋めさせる。一瞬驚いたミウラは、おれを突き飛ばそうと手を突き出した。それを右手で防ぐ。敵わないと悟ったのか、抵抗はすぐさま無くなった。




「いや、」
「ミウラ、」
「はなし、て、くだ、」
「ハル」




 優しく名前を呼んで、左手でクシャリと頭をなでた。ミウラの小さな肩が震えて、鼻をすする音が部屋に響く。緊張感のない奴だと、自然に口元がゆるんでしまった。




さんは、ずるい、です」
「何がだ?」
「だって、ハルって呼んでくださいって、何回言っても、呼んでくれなかったのに」
「それは……」




 それは、わかっていたからだ。ハル、と、そう呼んでしまっては、もう後戻りができないと。この感情に、歯止めが掛からなくなると。わかっていたのに、呼んでしまった。もう、戻れるはずがない。否、名前など呼ばずとも、もう止めることなどできなかったのかもしれない。どれも、これも、ぜんぶ、




「お前が悪ィんだからな」




 そうだ。お前が悪い。お前がおれの目の前で、泣いたり、笑ったり、哀しんだり、寂しがったり、そうやってコロコロと表情を変えて、おれを捉えて離さないから。床に落ちたチェリーピンクのハンカチを、革靴で踏み躙った。お前が悪い。お前がおれの目の前で、目を真っ赤に腫らしながら、アイツからのプレゼントを必死で握りしめ、アイツのことを想って泣いているお前が悪い。自分のことばかりでいっぱいいっぱいになって、アイツや、おれのことなど少しも考えないお前が悪い。そう、お前が。




「ど、どういういみ、です、か」
「アホな後輩を持つと苦労するってことだ」
「はひ……ひ、酷いです」
「なんだ、ハル、おれが酷い男だってこと、知らなかったのか?」
「ううう」
「酷い科白、いっぱい言ってやるから、気の済むまで泣けよ」




 くしゃりとまた頭を撫でると、ハルは遠慮がちに、すがるように、おれのスーツを握りしめた。そうだ、お前はなにも考えずに、おれにすがりついていればいい。なにも、知らなくて、いい。プレゼントが突き返された理由も、お前がこの研究室に配属された真意も、この部屋の至る所に設置された隠しカメラの意味も、ボスの行動に隠された真実も、おれのこの抱擁の意図すらも。
 じんわりと肩口が湿るのを感じる。2割の水分を失うとヒトは死んでしまうのだという。このまま彼女が眠るように死んではくれないだろうか。おれの唇が弧を描いたのを、彼女は一生知ることはないだろう。
























眠りのグロリア
(睨みつける先、カメラの向こう側で、男が歯噛みしたのを見た気がした)
title by late fantasia













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120324  下西 糺






おおおくれちゃってごめんよ!
ツナ←ハル←男主っていうよりは、
ツナ(→)←ハル←男主って言うほうがしっくりくるね!
解説いれないといけないのは文章力ないってことですね! 精進します!


つまりまあ、ツナはハルちゃんが心配で
危なくない研究室に配属させたりとか、
誕生日プレゼント受け取らなかったりとか、
隠しカメラで監視しちゃったりとか、
しちゃうわけですたぶん。


投げつける感じでごめんねうれいちゃん!
良かったらもらってね\(^0^)/