おれは猛烈に困っていた。




「ねぇ、いいでしょう? お金はいいからァ」
「いやー、あのネ、お金の問題じゃなくてね」




 困惑したように頬を掻くも、目の前の女性にはそれにこめられている意図が伝わらなかったようだ。お願ぁい、と、甘ったるい声で囁かれる。薄暗い路地裏、遠くの明かりでかろうじてわかるお互いのかんばせ。きれいにまとめ上げられた髪に、目の覚めるようなルージュ。暗がりの中でもわかるほど、スタイルのいい躰。極めつけは、絡められた細い腕と、押しつけられた豊満な胸。商売女ではあるが、きっとそれなりの位置まで上り詰めたのであろう。身につけている衣服や香水も、安っぽい印象は与えなかった。もちろん、彼女を抱くつもりはない。しかし、おれは猛烈に困っていた。だめだ。この女、超タイプ。




「あのね、オネーサン、はっきり言うけど、君はおれのタイプです。どんぴしゃです。ええ、そうですとも」
「じゃあなんでダメなの? 恋人でもいるの?」
「ああ、うんうん、そうそう」
「大丈夫よ、一回ぐらい」




 オネーサン、あなたは大丈夫かもしれませんが、おれは大丈夫ではありません。
 むしろオネーサンも大丈夫ではないです。アイツにバレた場合。我らがキャプテンが怒り狂っている場面を想像して、おれは思わずぶるりと震えてしまった。運が悪くて殺されるだろうし、運が良くて一生バラバラだ。嫉妬に狂ったローがなりふり構わないことを、おれは身を持って知っている。ああ、アリッサちゃんごめんねー。君のことは一生忘れないよ。おれのなかで生き続けてるからね! ローザちゃんは結局、失くした片耳見つかったのかな? 彼女の耳は形も感度もすごくよかったから、ちょっと残念だなァ。現実逃避まがいの追憶は、彼女の目には思案しているようにしか見えなかったらしい。白魚のような美しい腕は、逃がすまいとおれの首に絡みついた。そのまま耳に息を吹きかけられ、遊ぶようにぺろりと舐められた。あーごめんロー、ちょっと興奮してきた。




「ね、私お店で一番の売れっ子だから、いい部屋あるのよ」
「ほんとに?」




 気付いたら彼女の腰のあたりを右手で撫でまわしていた。おうおう、男の性って怖いねぇ。そういえば、久しく女は抱いていない気がする。まろやかな尻に掌を滑らせながらその感触を楽しんだ。うーん、おれって別に男色なわけじゃないしなあ。ローのことは好きだし、愛してるし、むらむらもするけれど、やはりそれとこれとは話が別なのだ。愛情云々の話は抜きにすると、そりゃあたまには女も抱いてみたくはなる。戯れ程度に尻を抓ったら、女は「あンっ」と小さく息を漏らした。しまった。啼き声もツボだった。




「ね、も、我慢できない」




 だから早く、なんて美女に言われてしまったら、だれだって眩暈を起こすと思う。うるんだ唇がゆっくりと目前に迫ってくる。あー、キスされちゃうなァ、と頭の片隅で考えた、その瞬間。




「っぁ、ぐ、」




 突然美女が動きを止め、びくんびくんと大きく痙攣した。絡められていた腕から一気に力が抜けたかと思うと、名前も知らない女は白目をむいて路地裏に倒れてしまった。異変に気づいていたおれは、もちろん倒れる前に抱きとめることもできなくはなかったけれども、その一部始終を視界に収めるだけに留めた。彼女を生かしておきたいなら、おれから触れないのが一番だと、長年の経験からわかっていたからだ。帽子をかぶり直してから、おれはゆっくりと背後を振り返った。




「一般人の、それもオンナに、覇気まがいのモンぶつけたら、そりゃあ白目むいて倒れちゃいますよ、キャプテン」




 暗闇の中、一双の瞳がギラリと光っていた。目の下の隈は普段よりもさらに濃く見えるが、それ以上に纏う空気の方に問題があった。ぎらぎらとした殺気がクルーであるおれに向けられている。真一文字に結ばれた唇が、その怒りを如実に表していた。返事がない。まずい。これは、かなり怒って、いる。





「あい」
「なにしてた」




 地を這うような重低音で、簡潔に述べられ、返答に困った。初めは夜の徘徊をしていただけのはず、であった。たまたま、商売女にからまれて、たまたま、その女がおれ好みで、たまたま、その女がおれのことを好きになって、たまたまキスしちまいそうでした。脳内で文章を考えてから、即座にそれを否定する。いやいやいや、こんなこと言ってみろ。間違いなく体中がいくつものパーツに分かれてしまう。殺されることはないだろうが、生首だけ海水攻めに会うことは避けられないだろう。そんなことはごめんである。結局、原点に回帰するのであった。




「散歩してました、キャプテン」
「ほう。お前の散歩は路地裏で女の尻を抓ることを言うのか?」
「スミマセンデシタ」




 いやあ素晴らしい観察眼ですね。さすがおれらのキャプテン。だらだらと冷や汗が吹き出て流れた。引き攣った笑みを浮かべたまま、おれはホールドアップ。オーケー、ロー、おれが悪かった。おれが悪かったから、たのむから、その左手を下ろしてくれ。太刀はどうにでもできるがその左手はどうしようもない。ううう、気配消して近づくなんてずりィよなァ。




「反省してマス。許してくだサイ」
「仕方ねェな」
「さっすがおれのロー! だいす、」
「好きなパーツ選べよ。足元に転がってる女と交換してやっから」
「キャプテンんんんんんんんんん?!」




 フフフ、と暗く笑うローに思わず突っ込んでしまった。いやいや落ちつけ、落ちつけって。ホールドアップしていた腕を、思わずパタパタと振る。その様子を鼻で笑ってから、やっとローは左手を下ろした。おれも胸をなでおろす。コツコツとヒールの音を響かせながら、ローが一歩一歩おれに近づいてきた。胸中お察ししますキャプテン。まだまだ嫉妬の炎は収まらないのですね。ぎらぎらとした威圧感を体中から発しながら、ローはゆっくりと刀を引きぬいた。安い電球の光を反射してギラリと光るそれ。身長ほどもある太刀をローは音もなく女の顔へと近づけた。その刃先は、女の唇から3ミリとも離れていない。ぴたりと静止させた状態で、ローはおれを振り返る。その暗い瞳に、思わず背筋が粟立った。ぞくぞくする。おれを睨みつけながら、ローは低く唸った。




「キスはしたのか」




 その言葉に込められた意味と、滲み出る感情に、身体中が歓喜するのがわかった。殺気交じりのその視線が、ぞくりぞくりとおれに快感を与える。油断したら嗤いだしてしまいそうだった。込み上げるそれを必死で嚥下して、「知ってるだろ」とわざとぶっきらぼうに答えた。




「おれ、本命以外とキスできねーの」




 事実だった。ローが殺気を向けなければ、彼女の唇を切り落としていたのはローではなかったはずだ。おれの瞳をじっと見つめてから、ローは無言で刀をしまう。よかったねー名も知らない女の子。これから先、好きな男とキスをすることも咥えることもできなくなっちゃうところだったよ。あ、でも、咥えなくても舐めることはできるから、商売は続けることができたかもね。下品なことを考えていたら、溜息をついたローが踵を返したので、おれはそのあとを早足で追いかけた。




「なー、知ってただろ?」
「さァな」
「知ってたから、気絶までさせた。そうだろ?」
「……」
「安心しろ、キスさせるつもりは毛頭なかったよ」




 それに。
 前を歩くローの腕を掴み、強引に振り向かせる。なにか文句を述べようとしたその唇を、己の唇で塞ぐ。舌打ちも、文句も、吐息すらも、全てを呑みこむように口付けた。ぬるりと咥内に侵入した舌は、すぐさまローのそれを絡みとる。一度びくりと反応した体を、右腕で抱きすくめた。息付く暇もないほどの激しい接吻。最後に唇に吸いついてから、ゆっくりとそれを離した。




「奪われるよりも、奪うほうが、性に合ってる」




 覗きこんだ瞳。奥底に沈んだ色は、おれだけが知っていればいい。
























断崖絶壁の藍



(「…………帰るぞ」)(「アイアイ、愛しのキャプテン」)











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120330  下西 糺






嫉妬に狂うローと、嫉妬させたい狂ってる攻め主が書きたかっただけwwww
女たらし攻め主だいすき^q^おいしいもぐもぐ