とんでもない人間に遭遇した。 池袋に、“絶対に敵に回してはいけない人間”が何人かいることは、有名な話である。だから、池袋を歩くときは気をつけなきゃいけないよ、って、うわさ好きの友達に言われたのは、ついこの間の話。自動喧嘩人形である平和島静雄はそれの筆頭らしいけれども、私にしてみればそれはどうってことなかった。なぜなら、その平和島静雄は私の唯一無二の兄だからである。私は兄さんが大好きだし、それと同じくらい弟も大好きだから、池袋を歩くのは実は好きだったりする。だって、もしかしたら兄さんにあえるかもしれないし。ガリ、と口の中の飴をかみ砕く。用済みの白い棒は、コンビニのゴミ箱に投げ入れた。新しい飴を鞄から取り出して、口に含む。あ、いちごミルクだ。んまい。棒を掴んでくるくると回しながら、目の前の大通りを見渡した。人、人、人の波。ゴールデンウィーク中だからか、池袋はこれでもかというほど大量の人間でごった返していた。うーん、これじゃあ兄さん、見つけられないかも。残念だな、って思いながら、路地裏に足を向ける。大通りは人が多すぎるから、裏道を通って帰ろうかな。それが失敗だった。 「やあ、、逢いたかったよ」 回れ右。脱兎の如く走り出したけど、間に合わなかった。がしりと掴まれる腕。 「離してください、折原さん」 「やだなあ、俺との仲でしょ。よしてよ、“折原さん”だなんて」 傷ついちゃうなあ。満面の笑みでそう述べて、臨也さんは私の腕を引き寄せた。対抗するように脚に力を込める。体中から滲み出る嫌悪感に気付いているだろうに、臨也さんの笑みは深まるばかりだ。ああ、最悪だ。本当、ついてない。 「臨也さん、離してください」 「だって、離したら君は逃げるでしょ?」 「逃げませんよ」 「うん、嘘だよね」 ちくしょう、私だってかなり力強いのに、思い切り引っ張ってもその腕が外れることはなかった。爽やかなのは本当、顔だけだよね、臨也さんって。何気に力強いし、物騒だし、腹の中はびっくりするぐらい真っ黒だ。 「珍しいですね、臨也さんが池袋にいるなんて」 「なんだか君に逢えるような気がしてさ。いやあ俺って本当についてるなぁ」 「私の気分は最悪ですけどね」 「これも何かの運命だよね。どう、この後デートしない?」 「兄さん呼びますよ」 とたん、臨也さんの顔が苦虫をかみつぶしたかのように歪められる。うーん、あいかわらず兄さんと臨也さんの仲は悪いらしい。「シズちゃんは出さないでよ」不貞腐れたように言う臨也さんに、逃げ出すチャンスだと思って腕を引っ張ったけれど、それを見越していたのかさらにがっちりと掴まれてしまう。それどころか、その細腕では想像できないくらいの力で引っ張られて、バランスを崩してしまった。どん、という鈍い衝撃が背筋を走る。目の前には愉しそうな臨也さん。後ろは薄汚れた壁。あ、挟まれたなって思ったら、切れ長の瞳が目の間に迫っていた。咄嗟に右手で臨也さんの唇を押さえると、臨也さんの眼が細められる。どうしてこの人は、自分の思いどおりにいかなければいかないほど、愉しそうな顔をするんだろう。 「なに、しようとしてるんですか」 「なにって、キスだけど」 「そういうものは恋人同士がするものです」 「じゃあ、俺と付き合ってよ」 それでキスしよう。 明朗快活にそう述べられて、はたしてYesと答える人間がいるのだろうか。うーん、臨也さんを知らない人間ならば、すぐさま絆されて首を縦に振ってしまいそうだ。眉目秀麗を体現しているような臨也さんは確かに見た目だけなら100点満点だ。でも、中身がマイナス1万点だから、結局マイナスなんだよね。私、彼氏にするなら兄さんみたいな優しい人がいいです。ちょっと過保護だと思うけれども。 「残念ながら私は生まれてこのかた彼氏がいたこともなければ、これからつくる予定もありません」 「悪くないね、それ。つまり俺がの最初で最後の男ってわけだろ?」 「冗談きついですね臨也さん」 「本気だよ」 迫ってくる臨也さんの顎をぐいぐいと押す。うーん、めずらしい、な。臨也さんがこんなにしつこいの。基本的にこの人は見返りのない面倒事が嫌いだから、私に対してもこんなにしつこくちょっかい出したりしないのに。そうかんがえると、この体勢も腑に落ちなかった。折原臨也という人間は、絶対的な優勢を好むのではなくて、本気を出せば逃げ切れてしまうのではないかと思えるような体勢を好むのだ。そうして、全力を出し切っても逃げられないという現実を見せられた獲物の、絶望の表情を嬉々として見下ろす。それが臨也さんという人間なのだ。うーん、改めておもったけど、ほんとうに性格悪いなあ、このひと。 「こんな体勢なのに、考え事? 余裕だねえ」 「いや、臨也さんがなんだかいつもと違う気がして」 舌先で飴をいじりながらそう答えると、臨也さんはめをぱちくりと見開いた。あ、この表情は珍しいな、なんて思いながら、至近距離で臨也さんを観察する。きれいな形の眉根を寄せて、さっと視線を逸らしたかと思うと、小さく溜息を突いた。 「全く、に見破られちゃうとはね」 「いや、臨也さんがわかりやす過ぎるんだと思います」 「……俺のそんな些細な変化まで気付くなんて、やっぱりも俺をあい、」 「あり得ないですね。ていうかやっぱりってなんですかやっぱりって」 真剣な表情で私をみたから、どんなまじめな話かと思えば、なんてことはないいつもの戯言だった。誰も頼んでないのに、臨也さんはぺらぺらと私に対しての愛を語り出す。うーん、逆にすごいな。これだけ中身のないことをしゃべり続けることができるなんて、それこそもうすごい才能なんじゃないだろうか。私はべつに饒舌なひとが嫌いなわけではないけれど、臨也さんみたいに意味のない言葉の羅列をされたら、それはそれでうざいと思っちゃうな。うざやさんだ。 「俺もこれは運命だと思ったよ。だって誕生日にと逢えたんだからさ。間違いなくこれは神様の思し召しだ。そうに違いない。だから今日こそ俺はの唇を、」 「え?」 「え?」 私のぽつりと漏れた疑問符に、臨也さんはそれまでのマシンガントークをぴたりとやめて、私を見つめてきた。え、今日って、臨也さんの誕生日だったの? 「え、じゃあ誕生日おめでとうございます?」 「そこ、なんで疑問形なのさ。あ、そうそうプレゼントはで、」 「却下」 取り付く島もない返答に、臨也さんはがくりとこうべを垂れた。なんだよう誕生日くらい俺のいうこときいてくれたっていいだろお。とかなんとかぐずぐず言っている。口調がおかしい。呆れた視線を向けたけれど、無視されてしまった。気付いているだろうに、このひとは本当にタチが悪い。 「だからさ、俺の年に一度の素晴らしい日に、からのプレゼントをもらいたいんだよね」 うそだ。 折原臨也という人間が、自身の誕生に対してなにかしらの意義や感情を持ち合わせているはずがない。すべてが、何の意味も持たない記号なのだ。だから、彼のような人間に触れたことのないひとたちは、その膨大な記号に圧倒され、あれよあれよという間に彼の術中にはまってしまうのではないだろうか。うーん、それは気の毒だろうけど、でも私にはどうしようもないなあ。ころり、と舌先で飴を転がす。あ、プレゼント、あった。 「臨也さん」 「ん?」 「プレゼント、あります」 臨也さんがなにか言う前に、半開きの口に食べかけの飴を突っ込んでやった。むぐ、と声を漏らす臨也さんの隙を突いて、彼の腕からひょいと抜け出す。もごもごと口を動かしてから、臨也さんは眉をしかめた。「甘い」。 「いちごみるくです。味わって食べてください」 「ちょっと待ちなよこれはさすがに割に合わな、」 「はっぴーばーすでー臨也さん。アデュー」 さっと右腕を挙げて、私は大通りへと飛び出した。いくら臨也さんでも、これだけの人ごみの中から私を探し出すことはできまい。ふう、と息を吐いてから、反対側の道路に見慣れた金髪を見つけた。「兄さん!」叫んで駆け寄る。路地裏に残された臨也さんの独り言などは、知る由もなかった。 「ほーんと、傑作だよ、。いつか、必ず――――。」 |