「せーんぱいっ」 「高尾くん」 ボトルを洗っていた先輩は驚いたように顔をあげてから、にこりと笑って俺の名前を呼んだ。秀徳高校の朝は静かだ。特に校舎から離れた体育館まで来てしまえば、人影はほとんど見られない。いつも通り、先輩はひとり水飲み場でドリンクを作っていた。大量のボトル。蛇口からあふれ出る水が、春の日差しを反射してきらきらと光った。体育館の壁にもたれかかりながら、オレは目を細めてそれを見つめる。毎日の日課でもあるそれが、妙にくすぐったかった。 「相変わらず先輩の朝は早いっすね〜」 「高尾くんも早いでしょ」 そりゃあ、先輩にあわせてますからね。 言葉は呑みこんでにっこりと笑う。マネージャーである先輩の朝は早い。それにあわせるオレの朝もめちゃくちゃ早い。正直眠い。それでもオレがここにいる理由なんて、先輩はこれっぽっちも気にしたことなんかないんだろう。それはそれで、あれなんだけれども。複雑な感情は心の奥にしまい込んだ。先輩との距離を一気に詰めて、隣に並ぶ。ボトルを洗っている先輩の顔を覗き込んで、ニィっと歯を見せて笑った。 「早起き苦手なのに、偉いっしょー? ほめてほめてー」 「はいはい、すごいすごい」 「ちょ、せんぱいそれ全然誠意が感じられねーっす!」 「うーん、そうだなー、ドリンクつくるの手伝ってくれたらっとすごいとおもうなーおねえさんは」 さらっとそんなこと言われてしまえば、手伝わないわけにいかない。まあ、もともと手伝うつもりで、もとい先輩とおしゃべりするつもりで、わざわざ早起きして、朝シャンして、髪型整えて、身だしなみまできちんとチェックしてるんだから、いいんだけど。「よろしくー高尾くん」してやったり、と笑いながら先輩はオレにボトルを手渡した。ちぇ、と拗ねたように顔を逸らして、そのボトルを受け取る。熱を持つ頬。溜息は押し殺した。だからその笑顔、反則だっての。 *** 体育館に入ると同時に聞こえたボールの音に、思わず顔をしかめた。見慣れた髪の色に、思わずこころのなかで愚痴をこぼす。おいおいおい、真ちゃん、来るの早すぎじゃね? 「あ、緑間くん。おはよう」 「よ、真ちゃん!」 「おはようございます、先輩」 「え、ちょ、オレは? オレは?」 手を止めた真ちゃんは、眼鏡をクイと上げてから、先輩に小さく会釈した。あいつ、マネージャーにだけは律義なんだよな。それがなんだか気に食わない。別に、真ちゃんのことだから、男とか、女とか、全然気にしてないんだろうけど、それでも気に食わないものは気に食わない。そのまま先輩と真ちゃんが立ち話を始めそうだったから、オレは二人の間に強引に割り込んだ。 「それにしても、今日はずいぶんはえーじゃん?」 「おは朝占いのアドバイスが、10分前行動だったのだよ」 「だからってこんな早く来なくてもいいだろー! 真ちゃんお願いだから空気よめって!」 「うぐっ! なんなのだよいきなり!」 「もう高尾くん! ボトルキャリー持ったまま暴れないの!」 軽くタックルをかましたら、先輩に怒られた。へーへー。どうせ八つ当たりですよ、と。ただちゃんと二人きりになれる時間を削られただけですーちょっとすねてるだけですー。もちろんそんなこと口に出せるはずもないから、唇を尖らせるだけに留めておく。「高尾くん、ドリンク、ステージの方に持ってってくれる?」先輩の言葉に軽く返事をして、背を向けた時だった。 「あれ、緑間くん、ジャージの襟、変になってるよ」 なおしてあげる。 う、わ、最悪だ。こういうとき、自分自身の能力を呪いたくなる。まあ視野が広いって言ったって、後ろに目がついてるわけじゃないんだから、なにが起こってるのかを見ることができるわけじゃない。それでも、なにが起こっているのかを想像することはできる。きっとおせっかいな先輩が、精一杯背伸びして真ちゃんの襟を直してるんだぜ、間違いねーって。背伸びする先輩の姿を想像して、胸がきゅんと疼いた。すぐさま真ちゃんの顔が浮かんで、気分は一気に急降下だ。真ちゃんってば、バスケ以外だとちょーっと抜けてるとこあんだよな。それがまた年上のオネーサンたちに人気らしい。そこまで考えて、頭をぶんぶんと振った。いやいやいや、ちゃんは先輩だし世話好きだけど、まさか、真ちゃんが好きなんてことは、まさか、 「あ、緑間くん、髪の毛もハネてる。ちょっとかがんで?」 あー、オレ、もう、なにも考えたくねーわ。無心無心。ぶつぶつと心の中でそう唱えるけれども背後が気になって気になってどうしようもない。持っていたボトルキャリーを床に置くと、鈍い音が体育館にこだました。その隣にどかっと腰を下ろして、半ば睨みつけるように遠くの二人を見つめる。ちょうど寝癖を直してもらった真ちゃんが、先輩にお礼を言っているところだった。先輩が微笑む。ううう、真ちゃんばっかりずるいよなー。ずるいずるい。オレだってちゃんに背伸びしながら襟なおしてもらいたい。ムシャクシャして髪の毛を思い切り掻きむしった。 「高尾くん! ドリンクありがとう!」 満面の笑みで先輩が駆け寄ってくる。そのあまりのかわいさに、息が詰まるかと思った。あああもう、だから、反則だっつーの。かわいすぎ。火照る顔に気づかれたくなくて、オレは唇を尖らせたままそっぽを向いた。いくらちゃんがかわいくたって、そう簡単に曲がったへそがもとに戻ったら苦労しねーって。「重かったでしょ?」にこりと笑う先輩。いやいや、オレはほだされたりしねーから。しねー、から。 「……いっすよーべつにー」 「わ、どうしたの高尾くん」 髪型、すごいことになってるよ? そういって先輩はオレの目の前にちょこんとしゃがみ込んだ。目をそらしたままのオレをじいと見つめてくるから、ついに耐えきれなくなって横目で先輩をうかがった。先輩は、物珍しそうにオレの髪を見つめている。あー、たしかに、そういえばさっきくしゃくしゃにしたんだった。 「んー寝癖?」 「うそでしょ。さっきまできちんとしてたじゃない」 「ねぐせだってー。せんぱいなおしてー」 「もー、甘えたがりなんだから」 苦笑した先輩が、オレの髪に触れる。撫でるようなその指先が心地よくて、思わず目を瞑ってしまった。シャンプーの香りだろうか。ふわりと柔らかい匂いが、春の風に乗ってオレまで届く。あ、やばい、どきどき、する。 「んーちゃん、もっとー」 「ふふっ、高尾くんってば、手のかかる弟みたい」 は、おとうと? ぱちりと目を見開いたのと、先輩の指先が去っていくのは同時だった。その柔らかい手首を、逃がすものかとがしりと掴んだ。驚いたように跳ねる先輩の肩。へぇ、おとうと。あーそう。そーゆーワケね。 「たかお、くん?」 真っ黒な先輩の瞳が、まんまるに見開かれる。細い手首を折らないように、きゅっと握って引き寄せた。右手を伸ばし、指先で先輩の前髪をさらりと撫でると、漂う先輩の香り。わずかに垂れ下がっている横髪を、耳にかけてやる。露わになったそれに唇を寄せて、吐息をぶつけるように囁いた。 「弟はこんなことしねーよ?」 ニヤリと笑って至近距離で見つめると、なにをされたのか理解していないであろう先輩は目を白黒させている。きっと、今の先輩の頭の中はオレでいっぱいなわけで。あー、やべえ、この無防備な顔、すげぇいい。もっと、 「−! 今日の昼練のことなんだが、」 「あ、は、はいっ!!」 体育館にこだまする声に、二人して飛び跳ねた。反射的に返事をした先輩は、するりとオレの拘束から抜けて、大坪さんのほうへと走り去っていった。いつ来たんすか、大坪さん……空気読んでほしかったっす。つか、ちゃん逃げ足はえー。でも、見間違えなんかじゃない。走り去る先輩の耳が、真っ赤に、 「弟、ねぇ」 先程の先輩の言葉がリフレインする。へぇ、弟ねぇ。上等じゃん? ぐっと拳を握って、唇の端を釣り上げた。オレを本気にさせたの、ちゃんだからな? 体育館の端、大坪サンと話している先輩を見つめて、独り呟いた。覚悟しとけよ、ちゃん? 「絶対、落としてやるよ」 なーんて、な。 |