「鉢屋、知っているか。空から天女さまが降ってきたぞ」




 そう聞かされた時は心底あきれたものだ。ああ、とうとう鍛錬のしすぎで目の前の先輩さまは頭の中身までギンギンになってしまったのか、と。話によると、あの1年は組の三人組が、お使いの帰りに6年生とばったり会って、そのまま並んで道を歩いていると空から光とともに天女様が降ってきたそうだ。不運委員長の上に。


 信じていなかった私だが、この目で見てしまったものは仕方ない。その女は見たこともないような服装で、山本シナ先生に案内されながら廊下を渡っていた。なるほど、確かに天女と呼ばれても納得できなくはない顔つきをしている。美人ではないが、可愛らしいという部類には入るのかもしれない。風の噂では、どうやら彼女のことを不運委員長と穴掘り小僧が取り合っているらしい。それどころか、暴君先輩もその二人に加わって、さらには兵助のところの後輩、髪結いの転入生も天女とやらを狙っているらしい。まったく、呆れてものも言えなかった。忍を目指す者たちが、三禁である色に溺れてどうするというのだ。それでも、私自身は勝手にすればいいと思っていた。くのいちではないようだし、学園を潰す様子も、学園長を襲う様子も見当たらない。先生方が無害と判断して学校に置いているのだ。私に危害を加えないならば放っておいてもいいだろう、と、そう考えたのだ、その時は。








 世界は二つに分けられる。大切なものと、どうでもいいもの。子供のころは環境が環境だったため、大切なものはついぞ自分以外に見つからなかった。だが、忍術学園に入ってからは、両の手で数えられないほどの大切なもの、失いたくないものを得ることができた。それは友人だったり、後輩だったり、さまざまだったが、私にとってはかけがえのないものだった。守りたいもの、と言えば聞こえはいいが、結局は醜い執着心だ。大切だから、誰にも渡さない。傷をつけるなど許せない。私は、幸せ、だったのだ。あの天女とやらが現れる、その前までは。あの女が現れてから、学園は少しずつ、だが確実に、何かがおかしくなっていった。雷蔵と、ハチと、兵助と、勘右衛門。私たちのあいだに、少しずつ、少しずつ、溝ができていった。原因は簡単だった。忍の三禁である、色。まず雷蔵が、次に兵助が、その次に勘右衛門が。そして、最後に、ハチが。目の前が真っ暗になったかのようだった。四肢が、唇が、戦慄く。だって、ハチ、お前は、お前には、彼女が、が、いるじゃないか。は、あいつは、どうなる?


 廊下の向こう、照れながら天女に笑いかけるハチに、私の声は届かない。
















 竹谷八左ヱ門には恋人が、いる。
 いる、と言うべきか、いた、というべきなのか、私にはわからない。ただ、という女は、天女がこの忍術学園に降り立つ前までは、竹谷八左ヱ門と想いあっていたのだ。間違いなく。それは、誰よりも近くで、見てきた私が一番よく知っていた。が、ふわりと笑うのは、私たち忍たまに悪戯するときの、ニヤリとした笑いではなく、本当に幸せそうに笑うのは、ハチの隣以外にはありえなかった。




 と出会ったのは、進級してすぐ、まだ桜の舞っている頃であった。おろしたての鉄紺の制服はまだ小奇麗で、綻びさえ見つけるのが難しいほどだった。数日前からそわそわしているハチを仲間内で問い詰めたところ、ついに女ができたと零したのだった。あの時の驚きは今でも思い出せる。しかも相手はくのたまだというのだから、さらに驚いた。寄ってたかって「やめておけ」とハチを説得したことも、鮮明に覚えている。




 ハチとが付き合うようになって、自然と私たちとの距離も縮まっていった。「鉢屋くん」が「鉢屋」になって、「三郎」になるのにそれほど時間はかからなかった。彼女の性格は、おしとやかな見かけとはかけ離れており、口を大きくあけて笑うし、食べながら喋るし、まるで女とは思えなかった。そんな彼女だからこそ、きっとハチは強く惹かれたのだろう。彼女は常に自然体で、着飾ることをしなかった。どこまでもまっすぐなひと、だった。そのまっすぐさに、私も惹かれたのだろうか。




 「さぶろう」名前を呼ばれるたびに心臓が悲鳴を上げた。触れられるたびに胸が熱くなった。笑いかけられるたびに咽が乾いた。名前を呼んで、手を取って、抱きしめて、口付けたかった。彼女が、ちらとでもいいから自分をみてくれやしないかと、そう願った日など数えきれない。少しずつ、少しずつ、だが確実に、私の押し隠した恋情は育っていった。それでも、掠め取ってやろうなどと考えたことは一度もなかった。彼女が、が、しあわせそうに笑う場所など、世界でたったひとつきりだったからだ。雷蔵すら知らないであろう恋慕を、私は閉じ込めて胸の奥にしまい込んだ。




 一度だけ、彼女の泣き顔を見たことが、ある。
 忍たま長屋とくのたま長屋のちょうど境目の塀。日陰になっているそこは薄暗くて、周りからは死角になっていた。ハチと彼女の喧嘩はしょっちゅうだが、その日のそれはいっとう激しいもので。部屋から飛び出したを、怒り心頭のハチに代わって私が追い掛けたのだった。見つけるのには四半刻とかからなかった。日の当らない塀の傍、うずくまったは震えていた。ぽろぽろと音もなく溢れ出る涙に、私は心臓を鷲掴みにされたかのようだった。衝動に任せて、抱き寄せて、零れた涙を唇で拭ってやりたかった。痛いほど抱きしめて、そして一言、「私にしろ」と、そう告げてしまいたかった。それでも、居場所を失うのが怖くて、に拒否されるのが怖くて、私は伸ばした手を彼女の頭の上に乗せたのだった。 「帰ろう、ハチのところへ」 には帰る場所がある。それは、彼女が世界でいちばんきれいな笑顔を見せる彼のところ。こくりと頷いて、それからひどい顔でにへらと笑ってから、私とはその場所へと向かったのだ。そう、あのときのには、あったのだ。帰る場所が。
























「またここにいたのか」
「……さぶ、ろう」
「この時期は寒くないか? 日向でないと冷えるだろう」




 やはりここは死角になっていて、あたりには人っ子一人見当たらない。すわりこんだの顔は窺えなかったが、うずめた膝のあいだから、ずびぃと鼻をすする音が聞こえて、胸が軋んだ。また、泣いているのか。ハチのせいで。あのときと違うのは、私たちの鉄紺がぼろぼろになってしまったことと、季節がもう冬も終わりにさしかかっていることと、それから、




「となり、失礼するぞ」
「……あっちいって」
「よいしょっと」




 の声を無視してとなりに腰を下ろすと、びくりとの肩が震えた。突き刺すような視線をあえて無視して、空を見上げる。重苦しい雲が、西の彼方に低く漂っていた。これはひと雨来るかもしれない。空気も少しだが水分を孕んでおり、独特の雨の香りが鼻腔をついた。もそのことに気づいているだろうに、ここから動く気配は微塵もない。ちらとの横顔を盗み見てから、私も彼女同様膝を抱える。唇が装束に触れて、くぐもった声が出た。




「ひと雨来そうだな」




 返事はない。先ほどよりも小さく、が鼻をすすった。ほかに音はない。世界から、ここだけが隔離されているかのようだった。それは、あながち間違いではないのかもしれない。少なくとも今の私にとって、世界とはあまりに大きすぎて、それを実感することなどできなかった。今この瞬間にもどこかで争いは起きていて、誰かが殺しあっていて、かと思えば命が生まれて、星が死んで。把握できない世界にのまれることなんてまっぴらだった。私は、私の世界は、もっと狭くていい。私と、雷蔵と、ハチと、兵助と、勘右衛門と、かわいい後輩と、先輩と、先生方と、それから、それから、がいれば、それでいい。それでよかったのに。




「……」
「とりあえず、移動しないか」
「放っておいて」
「……雨に打たれたら風邪をひくだろう?」
「三郎に関係ない」




 小さく漏れた拒絶の声、その端々に揺れる感情が垣間見えて、私の心臓はギリギリと締め付けられる。いまのは、それこそ、つんと突けばぼろぼろと崩れてしまいそうだった。壊れて、しまいそうだった。触れることすら躊躇われるその腕を、しっかりと掴むことができる人間なんて、忍術学園にはたった一人しかいないのに。おい、ハチ、今どこでなにしてるんだよ。頼むから、頼むから、こいつを救ってやってくれ、でないと、壊れてしまうよ。彼女が、私が、私たちを取り巻くすべてのもの、が。




「……、」
「……」
「帰ろう」
「……に、」
「え?」
「どこに帰れっていうの?!」




 衣に触れた私の手をぴしゃりと叩き落して、は叫びながら立ち上がった。整った眉が辛そうにゆがめられる。ぼろぼろとこぼれおちる涙をぬぐうこともせず、握ったこぶしをわなわなとふるわせながら、は叫ぶ。




「どこに、帰れって、言うの?!」
、」
「どこにも、帰れないじゃない!! ハチのところに、ハチのそばに、帰れるわけ、ないじゃない! ハチがそばにいたいと願うのは、わたしじゃなくて、あの女なのよ?! そんなハチのところへ、帰れるわけないじゃない! わたしに、帰る場所なんて、」
ッ!!」




 腕を引いて、抱きしめた。暴れるの背中に手をまわして、力を込める。やめろ、はなせ、ばか、きらい、しんじゃえ、はなして、いや、おねがい、やめて。拒絶の言葉はだんだんと小さくなっていき、最後には囁くような泣き声になっていた。




「どうしよう、三郎、わたし、」
「大丈夫だ、、お前は、一人じゃ、ない」
「わたし、一人になってしまう。みんな、わたしから、はなれて、」
「大丈夫、大丈夫だ、、私がいる。私が、お前のそばに、いる」




 背中を小刻みに揺らして無くは、まるで赤子のようだった。華奢な身体は、強く抱きしめたら壊れてしまいそうで、私はまるでどうしていいのか分からない。それでも、この胸に秘めていた恋慕を伝えたくて、指先に力を込めて、でも戸惑って、結局、小さな背中をやさしく擦ることしかできない。はらはらと涙を流すの、名前を何度も何度も呼んでやる。さぶろう、と小さな声で名前を呼ばれて、心臓に震えが走った。




 なぁハチ。私は一度もお前に言ったことはなかったけれど、一度もそんな態度を見せたことはなかったけれど、私はお前が羨ましくて、妬ましくて、仕方がなかったんだ。誰からも愛されるお前が、誰をも愛してやれるお前が。真直ぐに愛を伝えてやれるお前が。羨ましくて、妬ましくて、尊敬していたんだ。だから、私が一番大切に想ったひとが、お前を選んだことが、悔しくて、苦しくて、それでも誇りだったんだ。


 なぁハチ。私は十分我慢した。彼女は十分苦しんだ。そろそろ、倖せになってもいい頃合だと思わないか。大丈夫だ、私は彼女を苦しませたりしないし、彼女を傷つけたりしない。喧嘩もするし、反発もするだろう。それでも、最後まで手を放したりはしないさ。だって、彼女がそばにいないとどれだけ苦しくて、つらくて、切ないかを、私は痛いほど解っているのだから。




、」




 やさしく名前を呼んで、頭を撫でてやる。ぎゅっと抱きしめると、の手がおそるおそる背に回された。ぐ、と衣を掴んだそれに、力が込められる。、好きだ。好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ。だれよりも、なによりも、いっとう、愛しているよ。




、好きだ」




 耳元で囁いて、唇で頬の涙をぬぐってやる。ああ、もう泣いてはいないね。濡れた睫毛に唇を寄せた。このちいさくていとおしい彼女を、はなすことなど一生ないだろう。

























正義が勝つのは昔の話


(後悔したってもう遅い)(ああ、やっと捕まえた)
title by ace












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121003  下西 糺

ずっと眠らせていたかきかけの鉢屋くんです\(^O^)/
傍観主ってはじめてなのでちょっと勝手がわかっていない←