「……はーっ」 身体中の空気を吐き出してしまったかのようなその溜息に、パソコンから目をあげた。一番奥の席、卓上に資料が積み重なるそこで、笠松塾長が大きく伸びをする。時計の針は、もうすぐ零時を指しそうなほど進んでいる。生徒たちはとっくに帰宅しており、バイトや契約の講師たちですら、三十分ほど前に帰ってしまった。がらんとした教室内、わたしと笠松塾長の二人きり、だ。大きな欠伸をした塾長と眼が合って、わたしはにこりと微笑んだ。 「おつかれさまです、笠松先生」 「おう、お疲れ」 ぐるぐると肩を回す塾長に、やっぱり笑みがこぼれてしまう。今日は授業だけじゃなくて、面談もあったから、きっといつもより疲れているのだろう。時計を見た彼が、げ、と顔をしかめる。くるくると変わる表情。授業中とは違う、業務後の独特の柔らかさに、キュンと胸が疼いた。わたしだけ、特別なんじゃないかって、そんな錯覚。 「そういえば、どうだ? 新人のほうは」 「阿部先生ですか? まだ慣れてはいないみたいですけど、生徒ときちんとコミュニケーションはとれてるみたいですよ」 「そうか……あー、研修もやらねーとな」 がしがしと頭を掻きながらそう言って、塾長はもう一度腕時計を覗きこんだ。たしかに、そろそろ帰らないとまずい。終電はまだ間に合うけれど、だらだらと支度をしていたら乗り過ごしてしまう。机の上の書類を整理して、テキストを棚にしまおうと席を立った時だった。 「、」 低く艶のあるその声に、びくりと身体が震えてしまった。鼓膜を振るわせるそれに、一瞬にして思考が混乱する。こわばった身体、テキストが指を擦り抜けて、机の上へと落下した。慌ててそれを拾おうとする、けれど、身体がうまく動かない。見られて、る。笠松先生の視線が、じりじりとわたしを焦がすようだった。「な、んです、か?」声は裏返った。 「あ、そうだ、先生、帰る前に、コーヒーでも、確か、お湯が、まだ、残って、」 「、」 「っ、」 おいで、と手を伸ばされたら、もう逆らえるはずがない。詰まった息。鋭い双眼に捕まって、身体はいうことをきかない。ふらりと彼に近づいて手を伸ばすと、がしりと掴まれる手首。ちいさな悲鳴が漏れたのと、抱き寄せられたのは、ほぼ同時だった。事務用の回転イス、肘掛のないそれに座った塾長に抱きすくめられて、一気に身体が熱くなる。 「か、さまつ、せんせ、」 「もう誰もいねーんだ。いつもみたいに呼べよ」 低く囁くその声に、頭の芯が痺れるみたいだった。すっと頬をなぜた手が心地よくて、思わず瞼を伏せてしまう。「ほら、早く」催促するように彼の親指が唇をなぞった。胸板に寄りかかったまま彼を見つめる。あまりの近さに、顔がかっと熱くなる。それでも視線を逸らせなくて。 「せんせ、近い、で、す」 「先生じゃねーだろ」 「っぁ、」 顎を掴まれて耳にキスをされただけなのに、唇の隙間から小さな声が漏れてしまった。耳が、顔が、熱い。それに気付いたのであろう笠松先生は、意地悪くふっと笑ってから再度耳元にキスをした。わざとたてられるリップ音、羞恥のあまり泣き出したいくらいだった。「や、だめ、」ぐ、と彼の胸板を押したけれども、鍛えられたそれはびくともしない。たしなめるような甘噛みに、腰がぞわりと疼いた。 「だめ、ここ、会社、」 「ちゃんと呼べたらやめてやるよ」 俺の名前。 かぷりと耳たぶに噛み付かれて、また小さな声が漏れてしまう。耳にかかる吐息が熱くて眩暈がした。湿った舌先がそこをなぞるたびに、びくりと身体が震えてしまう。逃げ出したくても、がっちりと顎が固定されていて動かすことすらできない。口を開けば甘ったるい声が漏れてしまいそうで、必死に唇を引き結ぶのだけれど、どうやらそれは彼の嗜虐心を煽るだけだったようだ。わたしの腰をなぞった彼の手のひらが、スカートの上から太ももをやんわりと掴んだ。 「っあ、そこ、だめ、」 「相変わらず太股弱えーな」 くくっと耳元で笑ってから、彼の手がねっとりとそこを這う。ぞくりぞくりと背筋が震えて、思わず目を瞑ってしまった。柔らかい唇が、瞼にも降ってくる。「」優しい声音で名前を呼ばれて、高鳴る心臓すら蕩けてしまいそうだ。やめてほしくて、でももっと触れていたくて。彼のスーツをぎゅっと握ったら、首筋にキスを落とされた。 「、」 「かさまつ、さ、」 「、」 「っ、ゆきお、さ、んんっ」 突然唇を塞がれて、くぐもった声が漏れる。べろりと熱い舌が、わたしの唇を撫ぜたと思ったら、じゅぷりという音とともに口内に侵入してきた。ぐるりと歯茎をなぞったそれは、強引にわたしの舌を絡め取っていく。鼻にかかった甘ったるい声と微かな水音が耳について眩暈がする。「ふぁ、ゆき、んむ」キスの合間に名前を呼ぼうとしたけれど、すぐにまた唇にむしゃぶりつかれて、小さな喘ぎ声にしかならない。ごぷり、送られてくる唾液を、咽を鳴らしてごくりと飲み込んだ。は、という吐息。唇を離すと、糸を引いた唾液が、ぷつりと音を立てて切れた。 「えっろ……」 「だ、誰のせいですかっ!」 真っ赤になってそういうと、幸男さんはにやりと笑って私を抱き上げた。そのまま、机の上にふわりと下ろされる。脚の間に彼の身体が入り込んで、身動きをとることすらできない。首にまわされた左手に引かれるまま、再度唇を重ねた。 「ん、ふぁ、も、だめですって、ば、幸男さんっ」 「ほォ……嘘は関心しねーな」 「ひゃんっ」 内腿を軽く引っ掻かれて身体が跳ねた。のけ反った咽にがぷりと噛みつかれる。べろり。舌で舐められてふやける脳内を、一気に現実に引き戻したのは彼の唇が首に吸いついてきたからだった。 「っだ、め、痕は……ッ!」 悲鳴のような声に彼の動きが止まる。はっと、息を呑んでももう遅い。首筋に顔を埋めていた幸男さんが、ゆっくりと身体を起こす。切れ長の瞳。突き刺すようなその視線に心臓がどくりと嫌な音を立てた。 「っぁ、わたし、」 「いい、わかってる」 冷たい声。なにか言おうと開いた唇は、幸男さんに塞がれてしまった。先ほどよりも荒い舌使いに、腰がぞくりぞくりと震える。性急にうごめく指が、ブラウスのボタンをぷつりと外した。あらわになった鎖骨を爪先でなぞられて、甘い声が漏れる。「幸男さん」「、」至近距離で見つめ合う。頬を撫でたら、左手に光る指輪がきらりと光って、心臓が止まるかと思った。強張る身体に、彼が気づかないはずがないのに。 「、」 「ゆき、」 「俺だけ見てろ」 吸いつくようなキスをされて、わたしは瞼をゆっくりと閉じる。たとえば、たとえば、もっと昔に、わたしが彼と出会っていたならば。そう、わたしが、この指輪をはめる前に、彼と出会っていたならば。そうしたら、むかえる結末は、今とは変わっていたかもしれないのに。 「、、」 「っふ、あ、幸男、さ、」 「、好きだ、」 愛してる。 悲痛な叫びに、返す言葉を、わたしは持ち合わせてなどいないのだ。 |