「ごめん……別れてくれない?」




 申し訳なさそうに眉をひそめられて、ずきりと心臓が痛んだ。ばくばくと鳴っていたそれは、熱だけ置き去りにしてしまったみたいだ。じくじくと痛んで、まるでわたしの身体の一部じゃないみたい。さっと身体から血が引いていくのを感じる。震えだしそうな手を、ぎゅっと強く握った。




「好きな人が、できた」




 だから、もう君とは付き合えない。
 わかっていた、彼がわたしを見ていないことくらい。わかっていた、彼が、放送部のあのこを目で追っていたことくらい。わかって、いたよ。わたしが振られてしまうことくらい。噛みしめていた唇を、ゆっくりとひらく。声が震えないように、おなかに力をいれる。




「そ、っか。うん、わかった。……さよなら」




 目頭が熱くなる。だめだ、泣くな。きゅっと唇を引き結んで、俯いていた顔をあげた。困ったような表情の彼に、にこりと微笑む。「ほんとにごめん」「ううん、へーき」「……には、もっとしっかりしたヤツが、いいと思う」「そうかな」「うん」「そっか」「うん。……じゃあ、俺、行くわ」わたし自身が、ふわふわと空中に浮かんでいるみたいだった。会話がひとつもこころに届かなくて、ぜんぶがぜんぶ、薄っぺらい水みたいだ。「ばい、ばい」去っていく彼にまた呟いたけれど、気付かなかったのか、彼は振り向かずに教室から出て行ってしまった。なにが「へーき」なの。どこらへんが「へーき」なのか、全然わかんない。わたし、ばかじゃないの。唇を強く噛んだから、声は漏れなかったけど、ぼたぼたと零れる涙を止めることはできなかった。ずきずきと心臓が、まるで刺されてしまったかのようにひどく痛む。人差し指で涙を拭ったけれど、流れ出るそれを止めることすらできない。うう、もういいや。ちょっとだけお化粧してるけど、そんなの、気にしない。気にしてほしい相手も、もういない。手の甲で強く目元を擦ったら、聞き慣れた声が教室に響いた。




「こーら。目元、擦っちゃダメだろ」




 その能天気な声をわたしは知っている。去年、同じクラスだったあいつの声、だった。能天気なその声が、好きだと思ったことは一度もない。あいつはクラスの人気者で、わたしは教室の隅で静かに座っているタイプの人間だから、絡んだこともほとんどない。それでもなぜか、彼はわたしに対して何らかのアクションを起こしているのだ。絶対に、絶対に絶対に来てほしくない時に限って、一番に駆け付けてくる男。それが彼、高尾和成だった。




「おーい、、聞いてる?」
「うるさい」
「よかった、耳が取れたのかとおもったぜ」




 教室の後方、扉に寄りかかっていた高尾は、ケタケタ笑いながらその身を起こした。薄暗い教室。しとしと降る雨と、高尾の笑い声がミスマッチ過ぎて、まるでさっきのは夢だったんじゃないかって錯覚しそうになる。それでも、じくりと痛む心臓が、擦ったせいで熱を持つ目元が、じわりと痛んで、わたしを現実に縛り付ける。




「まーた振られたのかよ」




 にやにやと笑うその横っ面を、叩き飛ばしてやりたくなった。「うるさい」思ったより冷たい声がでたけれど、高尾はそんなことなど気にならないようだった。笑いながら、机の間を縫ってわたしの方へと歩いてくる。顔を覗き込むような仕草、おちゃらけたその態度に苛立った。ふ、ざ、けるな。見られてたまるものか。必死で顔をそらして、最後の涙をぐいと左のてのひらでぬぐった。




「最初は卓球部期待のホープだったっけ? 次は同じクラスの学級委員クンねぇ」




 半笑いになりながらのその科白に、口の中にじんわりと苦みが広がる。そうだ。初めて高尾と会話をしたのも、今日みたいな放課後の教室だった。あの日わたしは、三カ月付き合っていた彼氏に別れを切り出されたのだった。ああ、思い出すだけで胃がむかつく。ねばりとした黒い何かが咽に引っかかってるみたいで、不快なことこの上ない。あの時も、わたしはぼろぼろ泣いていて、高尾は楽しそうにケラケラと笑っていたのだった。そして、表情とは正反対の、ひどくやさしい手つきで、彼はわたしの手首を掴んだのだ。「目元、擦っちゃダメだろ」




「ま、前の男より長く続いたし、いいんじゃね?」
「うっさい」




 知ったような口をきくな。ぎり、と歯を噛みしめる。ああ、ほんと、こいつ、最悪。ぐりぐりと傷口を抉るだけでは飽き足らず、塩を塗り付けるようなその言動に、怒りを通り越して呆れすら感じる。こういう男は相手をするとつけあがる、から、無視するのが一番だ。うん、帰る。机の上のカバンの中に、ポッケに入っていた携帯を投げ入れた。じっとわたしの行動を見つめている高尾を無視して、チャックを閉める。カバンを肩にかけようとした瞬間、高尾にがしりと腕を、掴まれ、た。突然のことに、唇の隙間から小さな声が漏れる。




「っぁ、」





 名前を呼ばれて、思わず顔をあげてしまった。思った以上に、高尾の瞳がすぐ近くにあって、どくりと心臓が跳ねる。じっとわたしを見つめた高尾の眼が、スッと細まった。




「もう泣いてねーな」




 やわらかい声に心音が早まったのが自分でもわかった。な、んで、そんな声、出すの。意味がわからない。高尾に掴まれた部分だけが、まるで熱でもあるかのようにあつい。じくりじくりと伝わる熱に、頬まであつくなってきた。その頬をなぞるように高尾の指先が触れてきて、わたしの身体がびくりと固まる。目尻の方を撫でられて、思わず片目をつぶった。動くなよ、という低い声。落ちたマスカラを、ぬぐってくれているようだった。ふわりと香る高尾の香水に、めまいがする。




「ん、とれた。かわいい顔が台無しだぜ?」




 ニッと唇を釣り上げた高尾に、鼓動が早まった。え、なに、いまの、なに、か、かわいい? 高尾の手が滑るようにわたしの髪を撫でるから、頬どころか顔全体が発火したかのようにあつい。やだ、どうして、そんなこと、するの。爆発寸前の心臓が高尾に聞こえてしまいそうで、高尾の瞳に全てを見透かされそうで、わたしはさっと目を伏せた。な、に、なんなのこの状況。どうして高尾はわたしの腕を掴んでて、どうしてわたしのほほはあつくて、どうして、こんなにも心臓が、




「た、かお、は、」




 話題を変えなければ。カラカラの喉から絞り出した声は裏返った。




「ん?」
「あ、えっと、高尾は、なんのよう、だったの?」
「え?」
「え?」




 予想外の反応にこちらまで疑問符を飛ばしてしまった。とっさに顔をあげると、目の前には眼を見開いた高尾が。え、あれ、わたし、変なこと言ったかな? 何か用がない限り、こんな中途半端な時間に教室にやってくる生徒などいない。制服ということは、今日は部活、ないのかな。あれ、でも、高尾って、このクラスじゃないのに、なんでこんなところにいるの? この教室は校舎の端っこだから、用事が無ければ通りかかるなんてこと、ありえない、のに。




「え、、お前、マジで言ってんの?」
「え? う、うん、」




 おずおずと頷いたら、高尾はハァと大きなため息をついた。え、なんでわたしが、わるい、みたいな、そんな雰囲気になってるの? そんな疑問は、顔をあげた高尾と目が合った瞬間、すべて吹っ飛んでしまった。射抜くような、鋭い瞳。息を吸う事すら、出来なかった。脳内で警鐘が鳴り響く。だめ、だ、これは、だめ、いけない、




「お前さー……偶然だと思ってるわけ?」




 低い声。詰問するようなその口調にさっと背筋が冷えた。だめ、ここにいたら、だめだ。逃げ出したいのに、それを阻止するかのように、高尾がわたしの腕をさらに強く握り締めた。びくともしないそれ。脚は、縫い付けられたかのように、その場から一歩も動けなかった。逸らすことのできない瞳が、わたしを射すくめる。




「クラスメイトの元彼の情報を知ってるのも、振られた直後に現れるのも、泣いてるお前の涙を拭ったのも、ぜんぶ、偶然だって?」
「ま、って、高尾、うで、痛い、」
「オレがここにいるのも、偶然だと思ってんの」
「高尾、痛い、」
「偶然なわけねーだろ」




 ぐ、と腕を引かれて、高尾の顔が近付く。次の瞬間にはもう、キスをされていた。少し荒れた、でも酷く熱い唇が、わたしのそれに吸いついてくる。んむ、というくぐもった声が漏れた。いつの間にか高尾の腕は、わたしの腰をがっちりとつかんでいて。べろりと唇の上を滑る舌に身体が震えた。必死に身体を捩ったけれど、高尾の力が強すぎて身動きなんてとれない。どさり、机の上のカバンが床に落ちる音。唇を離した高尾に、必死で訴える。




「や、高尾、やだ、やめて、」
「ほんとにイヤ?」




 高尾の吐息が、脳内をおかしていくみたいだ。まつ毛が触れ合ってしまいそうなほど近くで、高尾がわたしの瞳を覗き込んでいる。真暗な彼の瞳に吸い込まれてしまいそう、だ。言葉に詰まってしまったわたしに、高尾は再度口付ける。




「んむ、ゃっ、高尾、やめ、」
「無理」




 好きだ、
 囁くような告白に、頭の中が真っ白になった。その隙を突くように、高尾の舌が口内へと侵入してくる。じゅぷり、熱いそれに歯茎をなぞられて背筋が粟立った。やめさせようと舌で押し戻したけれど、それを絡め取られて吸われてしまう。「ふぁ、」甘い声が出て、羞恥のあまり耳まで熱くなる。掴まれていない方の腕で、必死に高尾の肩を押した。




「やっ、高尾、まって、わたし、」
「充分待った。もう待てねェよ」




 三度降ってきた唇。侵入してきた舌に、ガリ、と歯を立てる。びくりと震えた高尾の身体を思い切り押すと、先ほどとは打って変わってすんなりと距離を置かれた。「ってー」相変わらずのにやにや笑いをした高尾が、ぺろと舌を出す。先端が少し赤くなっていたけど、そんなもの、たぶん、わたしの頬に比べれば、




「いってーんだけど、オレ、キズモノになっちゃうじゃん」
「しらない、ばか、なんで、急に、」
「だからー、言ったろ?」




 お前が好きだって。
 ニィと笑う高尾に、なぜかこちらが照れてしまう。ちがう、ばか、なんでわたしが、こんな、どきどきしなきゃ、いけないの、だって、高尾のことなんて、いままで、なんとも、




「はは、、顔真っ赤」
「う、るさい、しかも、なんで、名前、」
「なんでって、そんなもん、好きだからに決まってるっしょ?」
「っ、」




 当たり前のようにそう言われて、また顔に熱が集まる。そんな、なんで、どうして、ぐるぐると脳内をまわる疑問には、誰一人として答えてくれない。




「いやだ、むり、そんなの、むり、かんがえられな、」




 言葉をさえぎるように、高尾の指先がわたしのくちびるに触れた。かさつく親指が、くちびるをゆっくりとなぞる。先ほどのキスがよみがえって、頭がパンクするかとおもった。そんな、彼氏に、ふられたばっかりなのに、突然現れたと思ったら、涙を拭われて、好きだなんて、告白されて、キス、されて、そんなこと、考えられるわけ、ないじゃない、こんな状況で、そんなこと、




「……っふ、ククッ」
「な、なによ」
「お前さ、今オレのことしか考えてないっしょ?」




 つりあがった高尾の唇に、カッと頭が熱くなった。罵倒の言葉すら出てこなくて、ほとんど殴るように高尾を突き飛ばした。ケラケラと笑いながらそれを意ともせず、高尾がわたしの手首を掴む。あ、と思った時にはもう遅かった。にやにやと笑う高尾の顔が、ぐっと近づく。弧を描く唇。ぎらりとひかるその瞳だけが、はっとするほど真剣だった。




「逃がさねーよ?」




 俺、手段選ばねーから。
 かすめるように唇を奪って、高尾はそのまま教室を後にした。残されたのは床に落ちたままの鞄と、放心状態のわたしと、唇のぬくもりだけで。ずきずきと痛んでいた心臓は、いまや熱を伴ってばくばくと脈打っていた。乾いた唇を、すっと撫でる。「逃がさねーよ?」その言葉が、鼓膜にこびりついて離れない。ああ、わかって、しまった。たぶん、きっと、逃げられない。だって彼は、わたしがいつどこにいても、駆けつけてくるのだから。




























スリーセブン・ヒーロー











×



121225
giocatore/下西ただす
企画「Bb!」さまに提出させていただきました:)
Thanks for 紫さま/title by クラクション