遠くに見える母艦は、ぱちりと瞬きをしてしまえばすぐさま消えてしまいそうだった。月のない闇夜。真暗なそれに塗りつぶされて、ハートの海賊団のシンボルは見分けることすらできない。澄んだ空気が頬を撫ぜる。秋島と冬島の堺であるこの海域は、夜になるとしんしんと冷える。足元から上がってくる冷気に、ぞくりと身体を震わせたのは先ほどの話だ。いまは、体中から発する熱で額に汗が浮かんでいた。呼吸が上がる。




「きゃ、ぷ、てん!」
「……なんだ」
「こういう、のは、男が、漕ぐ、もので、は、」




 オールを動かしながらの必死の訴えは、キャプテンのフン、という笑いで即座に却下された。ああ、おかしいと思ったのだ。普段はなにか用事がなければ滅多に部屋から出ないキャプテンが、夜に甲板に出ていたから、珍しさゆえ声をかけてしまったのが間違いだった。「、ちょっと付き合え」キャプテンのお誘いに、おいしいお酒でも呑ませてもらえるのかと思って、頷いてしまったのが運の尽き。あれよあれよというまにボートに乗せられ、オールを渡され、漕げと命令され、離れていく母艦を見つめることしかできなかった。キャプテンの考えていることはいつも謎だが、今日はいつも以上に摩訶不思議だ。意味がわからない。能力者と下っ端クルーが小舟に乗って、新月の夜に母艦を離れるなど、正気の沙汰ではない。なにがしたいのかこれっぽっちもわからない。とうとうあたまがいかれてしまわれたのですかね、我らがキャプテンは。




「おい、。おまえ今なにを考えてるか言ってみろ」
「ごめんなさいキャプテンゆるしてくださいおねがいだからその左手をさげてくださいごめんなさい」




 キャプテンの無言の圧力にすぐさま謝罪する。左手こえぇ。もちろん今は太刀を持っていないわけだけれど、だからといってキャプテンが無力だと考える人間は、わたしたちクルーの中には誰一人としていないだろう。だって、怖すぎる。キャプテンの能力に苦しめられたのは、なにも敵だけじゃない。過去のトラウマを思い出してすっと背筋が寒くなった。




「…………とっとと漕げ」
「え、まだ漕ぐんですか?」




 ため息とともに吐き出された台詞に、思わずキャプテンの顔をまじまじと見つめてしまう。これ以上、母艦から離れたら、それこそ遭難してしまってもおかしくはない。声などとっくに届かないだろうし、目視することすらほぼ不可能だ。潮の流れも、航海士でないわたしは把握していない。ましてや、グランドラインの海は、刻一刻とその表情を変えるのだ。さっきまで凪が嘘のように、次の瞬間巨大なサイクロンが発生していることなど日常茶飯事である。いまの状況がどれほど危険かは、下っ端のわたしなんかよりも、何年も長く船に乗っているキャプテンが重々承知しているはずなのに。ぱちぱちと瞬きを繰り返したけれど、帽子を目深にかぶったキャプテンの表情は全く窺えなかった。胸中など、言うまでもない。




「キャプ、テン?」
「……いや、ここでいい」




 低く呟かれた声に、少し怖くなった。キャプテンの思惑が見えないことなど、いつも通りのはずなのに。このじわりとまとわりつくような不安はなんだろう。いつもとは違うキャプテンの様子に、えも言われぬ感情がさざめき立つ。伏せられたキャプテンの瞳が、わたしのそれを真正面からとらえた瞬間、心臓にびりりとなにかが走った。真暗な瞳が、射抜かんとばかりの鋭さを伴ってわたしに注がれる。鼓動が跳ねあがった。ゆっくりと伸ばされる腕に、硬直したわたしの身体は反応すらできない。金縛りにあったかのようだった。キャプテンの、ごつごつした、刺青だらけの指が、目前まで迫る。あ、や、だめ、




「ッ、いたぁっ?!」
「なにボケっと間抜け面してんだ」




 ビシン、という空気を切り裂くような音とともに、額に走る激痛。反射的におでこを抑えると、じわりと痛みが広がった。にやにやと笑う悪人面のキャプテンが、満足そうにわたしを見つめていた。




「で、デコピン?! なにするんですか!」
「お前が呆けてるからだろ?」
「なっ、」
「いいから早くオールをしまえ」




 ボートに引き上げろ。言うが早いが、キャプテンはわたしの左手に握られていたオールをパドルから取り外し、そのままそれをボートの底の方へと放るようにして置いた。ぐらりとボートが揺れて、波音が耳につく。わたしもキャプテンに倣って、慌ててオールを引き上げる。静寂漂う中、ごとりという音だけが妙に響いた。




「キャプテン、一体、」




 なにを。
 言葉は発される前に引っ込んだ。キャプテンの瞳が、わたしの顔のすぐそばに、ある。呼吸が、息が、うまく、吸えない。




「舟を揺らすなよ」




 低く囁かれて、身体が硬直するのがわかった。口を引き結んだわたしをじっと見つめたキャプテンは、スッと目を細めてからとわたしの名前を呼んだ。 「はい」ふわふわ、り。もうろうとした頭のまま返事をすると、キャプテンは視線をゆっくり周囲に巡らせる。「周りを見てみろ」




「……う、わぁ、」




 言葉が出なかった。
 きらきらと光る星空が、あたりいちめんに広がっていた。波一つ立たない海が、星たちの光を反射している。上も下も、右も左も、すべて、ちかちかと光り輝いている。まるで、星空の中に浮かんでいるみたい、だ。身を乗り出そうとする心を、必死に抑えつけた。うごかないように。身体が硬くなる。息をすることさえはばかられた。風も、波も、ない世界。音すらも、ない世界。満天の星空のなかを、キャプテンとふたりきり、浮かんでいた。遠くに離れてしまった母艦は、もう見えない。世界には、わたしたちだけ、だった。「どうだ」低く優しくささやくキャプテンの声が、耳をくすぐる。 「すごい、です」それ以上、なにも言わなかった。なにも、言えなかった。ちかちかと優しく輝く星たちが、わたしたちを包みこんでいる。どこまでも、どこまでも、続いていくそれに、眩暈が、した。









 キャプテンの低い声が、耳を掠めた。吐息がぶつかるほど近くで囁かれたそれに、身体がびくりと反応する。返事をしようと口を開いたけれど、飛び出てきたのは意味をなさない音だけだった。「ぁっ、」ぐらり、揺れるボート、揺れるからだ、揺れる視界。気づけば、わたしは船底に押し倒されていた。キャプテンのてのひらが、わたしの顔の横に置かれる。ぎしり、と舟が小さく軋んだ。




「きゃ、ぷ、てん?」




 じっとわたしを見下ろすキャプテンの瞳。ビーズみたいにきれいなそれは、星の光を反射してきらりと輝いた。キャプテンの後ろに広がる星空が、世界にわたしたちだけだと告げている。ぎしり。また小さくボートが軋んだとおもったら、ぐん、とキャプテンの瞳がわたしに近づいた。ふわり。キャプテンのまとう香水が、わたしの唇をくすぐる、キャプテンの吐息。唇が、触れてしまいそうなほど近くで、キャプテンがわたしの名前を囁く。真黒な瞳に、吸い込まれそうだった。きらきらひかるそれからは、なんの感情も読み取れなくて。わたしは、唇の隙間から小さく息を吸った。





「はい」
「おれと、」




 おれと死んでくれるか。
 ぱちり。瞬きをしたけれど、キャプテンのきらきらした瞳はわたしをじいと見つめたままだった。ちかちかとまたたいている星は、今にもわたしたちに降ってきそうだ。キャプテンの深く澄んだ瞳が、小さく揺れている。わたしは、もう一度、ぱちりと瞼を下ろした。









 やさしく名前を呼んだキャプテンは、さらりとわたしの前髪をかきあげた。「おれと死んでくれるか」星空にふわふわと浮かんでいるような、星の海にどこまでもしずんでいくような不思議な気分だった。それでも、怖いわけじゃなくて。




「キャプテン、」




 すきです。
 開いた唇は、彼にやさしく塞がれた。
























































カデンツァ



(それは、星だけが知っている)
title by 模倣坂心中











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130302  下西 糺
photo by 深夜恒星講義