「あ、」




 目の前を見知った顔が通って、思わず歩みを止めた。しかし、唇の隙間からは意味のない音しか零れない。その人物の名前を呼ぼうと口を開いたはずなのに、そこからは空気がすう、と漏れるだけだった。サッと、音を立てて、体中の、血の気が、引いていく。悪寒さえ覚えるこの状況に、正気を保てているかどうかすら、わからなかった。冷や汗が米神を伝う。震える手を、一度強く握りしめてから、その人物へと腕を伸ばした。後ろ姿にはひどく見覚えがあった。当たり前だ。ついこの間まで、共に戦場で闘い、死線を潜り抜け、巨人どもを殲滅せんと武器を手にしてきた、仲間、ではないか。そう、仲間、なのだろう? 仲間の、はずだ。そのはずなのに、何故、何故、顔が、――――顔が思い出せない。




「おい、」




 肩に手を置いて、引き寄せようと力を込める。びちゃり。ぬるりとしたその感触に、すぐさま腕を引っ込めた。生温かいそれに、ぞくりと体中の産毛が逆立った。ぐん、と噎せ返りそうなほど濃くなった鉄分の臭いに、眩暈がする。はっ、はっ、という乾いた自分の息が、何処か遠くで聞こえているような気がした。ズキズキと痛む頭。霞む視界のその先、疵だらけの己のてのひらは、真っ赤な血で、汚れて、




「っつ、」




 こみ上げる吐気をぐっと堪える。ふらりと揺れる身体を、支えるので精一杯で。ぐ、と唇を噛みしめたら、じんわりとした痛みが広がった。逃げなければ――。脳内で警鐘が鳴り響く。そうだ、そう、今すぐ、逃げなければ、ここから、逃げる――――どこへ?




「リヴァイ、兵長、」




 振り向いた気配に、顔を上げる。名前を思い出せないその人物が、こちらを凝視していた。凝視、している、の、だろうか? わからない。わかるはずも、ない。なぜなら、その顔面には、目も、鼻も、口も、なにもかもが、そこにない、のっぺらぼうの、――――「っは、」ドクドクと心臓が悲鳴を上げているかのようだった。「リヴァイさん」「兵長」「兵士長」「リヴァイ兵長」咆哮のようなそれが鼓膜を破りそうなほど響き渡る。やめろ、その名を呼ぶな、やめろ、やめろ、やめてくれ。懇願のような自身の叫びすら、目の前の人間の声に掻き消される。「どうして」「どうして」「死にたくなかったのに、」「いやだ、」「痛い」「痛い、死にたくない」「お前が、」「お前がもっと強ければ」「死にたくない」「死ななかったのに、」やめろ、聞きたくない。耳を塞いでも目を強く瞑っても脳内でガンガンとそれは鳴り響いた。目の前ののっぺらぼうが、ビキリ、ビキリと音を立てる。「お前が」「お前のせいで」「死んだ、」「みんな死んだ」裂けた唇が喚き散らすように叫ぶ。ぎょろりとせわしなく動かされる瞳が、俺をとらえていた。がっと開かれる口と、歪に並んだ鋭い歯が目前まで迫る。――――お前のせいで、みんな、
































「りばい?」
「っやめろ!!!!」




 ぱしん。
 目前に迫っていた小さなてのひらを、思い切り打ち払った。どくどくと耳元で心臓が唸る。はっはっ、という自分の短い呼吸音が、妙に耳についた。目の前の少女は、めをまんまるくして俺を凝視している。その白く柔らかいてのひらが、じんわりと赤くなっていた。それから目をそらさずに、はぁ、と息を吐いて気配を探る。机上に散らばる書類。鼻腔を刺激する湿気と、窓を叩く雨音。遠くの方で聞こえる喧騒。間違えるはずもない。いつも通りの、自身の、部屋で、あった。




「っ、」




 夢、か。
 悪夢だ。脳味噌はすぐさまそう理解したが、限界近くまで高められた身体は未だ緊張状態から抜け出せていなかった。研ぎ澄まされすぎた身体の感覚が不快だ。びりびりと全身を駆け巡るそれらを落ちつけようと、大きく息を吸う。冷や汗で濡れ乱れた前髪を、無造作に掻きあげる。その、些細な行動に、はびくんと身体を震わせた。揺れる瞳。ぎゅ、と頼りなさげに赤い手を握る彼女を見て、潔く先ほどの光景を思い出した。そうだ、俺は、彼女の腕を、反射的に、振り払ったのだ。




、」




 ――――泣く。
 そう思った。の大きな瞳はしょっちゅう潤んでいたし、誰かに泣きつくことなど日常茶飯事だった。一人で転んでは泣き、大人がちょっとぶつかっただけで泣き、置いていかれては泣き。どこからその水分を得るのかというくらいにはよく泣いた。脱水症状でぶっ倒れやしないかと心配するほどだった。3歳児とは思えないような声量でひたすら泣くを宥めるのは、たいていエルヴィンの役目だった。エルヴィンが忙しい最近では、ペトラがその役目を買っていたはずだ。少なくとも、俺が率先して彼女のお守を引き受けたことなど、ただの一度としてなかった。こちらから何らかのアクションを起こしたことも、なかったはずだ。それでもなぜかは、俺の後ろをちょこまかとついてくることが好きだった。短い脚を必死に動かして俺の後を追うその姿は、兵団の中でも有名だとエルヴィンは言っていた。有名だなんて、そんなもの知るか。ついてきたければ勝手についてくればいい。一人で転んで泣いたところで、無視して置いていくだけだ。それでも、何度転んでも、は俺に置いてかれまいと必死で歩みを進めた。顔中からいろいろなものを出しながら、泣き声を噛み殺し、俺の服を強く掴んで。そんな彼女の顔を拭いてやったことも、一度や二度ではない。いつからか、俺は彼女専用のハンカチを持ち歩くようになっていた。それほどまでに、すぐ泣いてしまうの瞳が、いま、目の前で揺らいでいる。




、」




 泣くな、と、呟こうとしたその言葉は、唇から紡がれることはなかった。無意識に伸ばした俺の手を、が優しく、しっかりと、握ったからである。




「りばい」




 しっとりと湿ってやわらかいそれは、子供体温のせいか俺のよりもひどく温かくて。それとも、俺の手が冷たいだけなのだろうか? 傷一つない白いふっくらしたてのひらが、俺の硬く疵だらけのそれを、まるで包み込むかのように握っている。思わず凝視したそこから、目を上げると、やはりの瞳はゆらゆらと涙をたたえていた。それでも、その瞳の光は強いなにかを宿していて。




「りばい、いたい、どこ?」
「……あ?」
「りばい、いたそうなかお、してる」




 そう言っては眉を下げる。心配が前面に出たその表情に、思わず言葉に詰まってしまった。痛い、だなんて、そんな感覚、久しく持っていない。どこも、痛い、ところ、など、




「えるびんがいってた。いたいときは、なでなですると、いいんだって」




 だから、が、りばいのいたいとこ、なでなで、する。
 きゅっと胸元で俺のてのひらを抱きしめながら、は必死で言葉を紡いだ。そのちいさな唇が、俺のてのひらを包むその指先が、微かに震えている、ような気がした。気のせいだろうか。それとも、それとも、震えているのは、彼女ではなくて、




、」




 彼女の小さな肩を抱き寄せて、おそるおそるその背中に腕をまわした。抵抗することなく俺の腕におさまったは、ゆっくりとその短い腕を俺の背中へとまわして抱きついてくる。ほんわりと温まる身体に、なぜか眉間に皺が寄った。。小さく囁いて、まわした腕に力を込める。抱き壊してしまわないように、慎重に。俺のそんな気持ちを知ってか知らずか、は「りばい、」と俺の名を呼びながら、小さなてのひらで必死に俺の背を撫でる。




「まだいたい? なでなでする?」




 心配そうな口調に、無言で頷いた。目を瞑ると、先ほどの悪夢が蘇る。否、あれは悪夢などではない。目を逸らしがたい現実、そのものだ。俺が兵士長であるのも、仲間を護れなかったことも。少しずつ、少しずつ、自分の世界が壊れていく。誰かが現実を去るたびに、俺の構成された世界が少しずつ、確実に、朽ちていって。それでも、この血みどろの世界から、逃げることなどできないのだ。逃げないと、誓ったのだ。ぎゅっと抱きしめる腕に力を込めると、小さくが身じろいだ。髪から漂う石鹸の香りに、酷く安心して。




「りばいがげんきになるまで、、なでなでするよ」
「……ああ」




 逃げないと、誓うから。だからせめて、雨が止むまでは、ただの俺でいさせてくれ。
























死に損ないの






クラシック・ローズ

(それは祈りに似ていた)(title by 模倣坂心中











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130511  下西 糺

ついにリヴァイさんに手を出してしまいました。
イメージと違うと思った方ごめんなさい。
へたれなリヴァイさんがすきなんです。