「うお、」




 思わず零れた声の後に、がちゃんという空気を裂くような音が部屋に響き渡る。慌てて足元に視線を遣ると、きらりと光る破片が泡の中に沈んでいた。あー、やっちった。溜息を呑みこんでその場にしゃがみ込む。小さな欠片を、怪我をしないように指先でつまみあげる。左手に集めてから、すべてまとめてシンクの中、三角コーナーへと突っ込んだ。かちゃんと小さな音を立てるコップ“だったもの”は、一人暮らしを始めたころ、彼女が買ってきたものだった。「高尾の家に丁度いいと思って!」イチゴ柄の小さなそれは、どう見ても俺の家には合わなくて。唇を尖らせながらそう指摘したけれど、彼女は「いいのいいの!」と満足そうに笑ったのだった。それ以来、一番頻繁に使われるそのコップは、俺の家でなくてはならないものになっていた。三つおそろいのコップは、食器棚の一番隅っこに、いつも仕舞われていたのに。




「壊れちまった、な」




 誰に話すでもなくそう呟いて、雑巾で床を丁寧に拭いた。薄汚れた泡や、小さな小さな破片を掬い取ったそれを、小ぢんまりとしたシンクで丁寧に濯ぐ。それから、途中だった食器洗いを再開した。もともと量も少ないうえ、ほとんど洗い終えていたため、ものの十秒もしないで洗い桶の中身は空になる。キュ、と蛇口をひねって水を止めて、残った泡ごとタオルで手を拭うと、物音は外の街灯の音だけになった。ジジジ、というノイズが、妙に耳に馴染む。キッチンの電気を消す、その瞬間、グラスの欠片がぎらりと光った気がした。じくり、痛む心臓。主張する透明なそれから視線を引き剥がすようにして、後ろを振り返る。乱雑なワンルーム。畳み損ねたままの衣服が、部屋の隅に押しやられていた。わずかにあいた窓から、生ぬるい風がさわりと吹き込んでいる。果実酒の瓶や空の缶ビールが転がるその部屋、菓子の空き箱に埋もれながら、彼女は静かに寝息を立てていた。




「おーい、、風邪ひくぞ」




 カンをひとつひとつ袋に入れながら、に声をかける。あ、缶ビール洗ってねーや。ま、いっか。明日はカンビン回収の日だし、一回くらい問題ねーだろ。大丈夫大丈夫、大家サン結構テキトーだし? バレそうになったら先に謝れば全然ヘーキだって。いつものように、パンと目の前で手を合わせて。ごめんなさいとそう謝れば、大丈夫。そんなことよりも、彼女が本当に寝ているだけなのかが心配だ。これで死んでたら洒落になんねーって。




「おーい。ちゃーん?」




 あらかたのゴミを回収し、ゴミ袋は部屋の隅へ。フローリングの上に敷いた薄っぺらいカーペットの上、身じろぎしない彼女の傍に座りこんで、その顔を覗き込んだ。顔にかかった前髪をよけて、唇の前へと手のひらをもっていく。あ、よかった、息してるわ。




? ちゃーん? ……ったく、しょうがねぇな」




 起きる気配を微塵も見せない彼女に、自然と溜息が洩れる。だから、飲みすぎだって言ったんだっつーの。どうせこうなるって、お前自身も分かってただろうに。揺り起こそうと彼女の肩を掴んで、その細さにどきりと心臓が呻いた。……そういえば、少し、痩せた気がする。やつれたと言った方が正しいだろうか。流れる前髪から垣間見える、やや荒れた肌。カサカサに乾いた唇が、ひどく痛々しかった。ああ、クソが。こんな状態の彼女が、滅多に弱みを見せない彼女が、自暴自棄になりながら酒を飲んでいたとして、誰がそれを止められるだろうか。止めることが彼女の幸せとは限らない。たまには、たまには、黙って聞いてやることも必要ではないだろうか。そう判断したまでの話だ。俺自身後悔していない。それでも、いささかこれは、予定外だ。




「……、起きろよ」




 起きろ、とそう繰り返したけれど、起きてほしいわけじゃないと気付いたのは何度目のそれを口にしたときだろうか。彼女の髪を撫でては、その柔らかい黒髪を指先に絡ませる。高校時代から伸ばし始めた黒髪は、気付けば腰に届きそうなほどになっていた。けなげな彼女は、「長い髪が好き」という、男のたった一言のためだけに、何年も何年も、自身の黒髪を伸ばしているのである。




「おーい、あんまり無防備だと、喰っちまうぞー」




 ケタケタと一人わらったけれど、乾いた声はすぐに壁に吸い込まれてしまった。おい、頼むから起きろ、いや、起きてくれるな、どちらでもない。どちらもくるしい。彼女が瞼を下ろしているこの一瞬だけが、俺の心を締め付ける糸が解かれる瞬間だった。じりじりとした痛みが止んで、ちくちくと刺す棘も消えて、やわらかくて、あたたかくて、あさましくて、融けるようで、焦げるようで、醜悪で、いやしい俺のこころが、むくりと鎌首を擡げる、その瞬間だった。聡明な彼女は、ああ、きっといま目を醒ませば気付いてしまうだろう。渦巻くどろりとした嫉妬に。まとわりつくような湿った慕情に。恋と云うにはいささか重すぎた。愛と云うにはいささか身勝手すぎた。恋慕と云うにはいささか狂いすぎた。ではなんと云えばいい?




「……ん、」
……?」
「し、ん、たろ……」




 震える唇でそう呟いて、彼女は悲しそうに眉尻をきゅうと下げた。「しんたろう」。いとおしそうに呼ばれた男は、今この場にはいない。喧嘩を、したのだそうだ。きっかけは些細なことだったけれども。少しずつ、少しずつ、溜まっていたさまざまなものが、一気にふくれあがり、ばくはつしてしまった、らしい。どちらか一方が悪いわけではない。緑間は大学が忙しかったし、彼女は学費を稼ぐためのアルバイトに奔走していた。すこしのすれ違いが生んだそれは、今までにないほどの衝突を起こして。お互いがお互いを想うあまり、傷つけ合っちまうだなんて、ほんと、ドラマみたいで笑えるね。泣きそうなを見下ろしながら唇を吊り上げたけれども、鬱屈した気分は微塵も晴れなかった。ああ、そうだ。知ってるさ。傷つけ合うことができるのは、想い合っている証拠だ。わかっていただろう。自分自身で見ないようにしていただけにすぎない。わかっていた。どこかでわかっていたよ。こうやって泣いて、縋って、傷つけ合って、そうやってお前たちはまた進んでいくんだろ。手を取り合って、赤い糸だかなんだかに縛られて、ふたりで。そうして俺は、いつでも置いてきぼりだ。




「しんたろ、う」
、」




 。違う、違うよ、俺の名前はね、
 ぽたり。滴がひとつ、つうと彼女の目尻を伝ってカーッペットに吸い込まれた。ダークグレーのそれは、染み込んだ涙をすぐさま掻き消してしまう。ぽたり、ぽたり、ぽたり。決壊してしまったかのように流れ出るそれに、俺はきゅ、と眉根を寄せた。張り付く前髪を両手でよけてやり、その冷たい頬をやさしく包み込む。やわらかいそれに、心臓が焦がれるようにじくりと痛んだ。なぁ、、たとえ手に入らないと解りきっていても、欲しい欲しいと駄々を捏ね、泣きわめきながら抗う俺を、お前は莫迦だと罵るか?




、」




 ふるりと震えた瞼が、ゆっくりと開かれる。きらり、憂いを帯びた双眼が、ゆらゆらと虚空を見つめている。捜して、いるのか。そうだね、そうだよ。お前の瞳はいつだって、艶やかなそれを探してて。なんて、これっぽっちも見ちゃあいないんだ。カサカサのくちびるが、ゆっくりと開かれる「か、ず、」その吐息を呑みこむように。俺は彼女のそれに自分のを重ねた。ささくれだった下唇。ほのかに香るアルコールと、むわりと立ち込めるあまったるいなにか。の唇はひどく冷たいのに、触れた部分が熱を帯びたようにじんじんと痛んだ。押し付けたそれを離すと、ぞわりとしたなにかが背骨を突き抜ける。鼻先が触れ合ったまま、潤んだの瞳を見つめる。見開かれたそれが、俺の胸を切り裂くようだった。




、」
「か、ずな、り、」な、んで。




 か細いその声に返す答えを、俺は持ち合わせてなどいない。ぽろぽろと流れ出した涙を、俺は優しく親指で拭う。なんで、だなんて、そんなの一つだ。そんなの、ひとつに、決まってるだろ。小さくしゃくりあげるに、俺は何度も謝罪を繰り返す。ごめん、ごめん、ごめんな、ごめん。ぼろぼろと零れるそれを丁寧に撫ぜながら、俺は祈るように“ごめん”を繰り返す。答えなんて見えなくて、どうしていいかわからなくて、身動きが取れなくて。苦しくて、せつなくて、好きで、好きで好きで好きで。赤ん坊のように泣きじゃくる君を、どうしてやることも、できない。




「なんで、なん、で、」
「ごめん、ごめんな、、ごめん、割っちまった」




 おそろいのみっつのコップ。割れたのは、どれ?
























エゴイストと子羊
title by ace











×

130702  下西 ただす

なんかこう、不完全燃焼でおわった←