「ね、今晩どう?」




 なんて陳腐な台詞なのかと思った。在り来たり、使い古された口説き文句。しかし目の前の男はいたって本気で、その鳶色の瞳は楽しげに細められている。夕日の差し込む書斎、やわらかい光が彼の髪に反射して、ススキ色がふわりとゆらぐ。大きな書斎机のその向こう。形の良い薄い唇はきれいな弧を描いており、誘うようなその貌は、街を歩くイタリア女性が皆振り返ること間違いなし、だ。魅惑的なその笑みは、しかし私にとっては不愉快なもの以外の何物でもなかった。




「申し訳ありませんが、勤務時間は今しがた終えましたので」
「もちろん。知ってるよ」
「時間外労働は雇用条件の中に含まれてはおりません」
「つれないなぁ」




 きれいなイタリア語でそうこぼした彼は、コーヒーカップに口をつけて苦笑した。それさえ絵になるのだから、先ほどの冗談はなおさら性質が悪い。もし私がうら若き乙女だったならば、ほいほいと騙され、絆されて、彼と二人、ワイン片手にシチリアの夜景でも眺めていたに違いない。そのままジャッポーネまで逃避行しよう。微笑みながら手を握られたら、きっとどこまでも彼についていってしまったはずだ。もうあと五つほど、私が若かったならば。




「では、ボス、私はこれで、」
「あ、ごめん、」




 これだけ頼めるかな。
 空になったコーヒーカップを掲げ、ドン・ボンゴレはにっこりと微笑んだ。はあ。溜息をついてから、ローテーブルの上の書類をまとめてラックに仕舞う。このあと総務部へ顔を出して、ベルナルドのところへと伝言を伝えて、そういえば、ロザンナが電話を欲しがっていたっけ。ああもう、雑用もいいところだ。どうして、こうもバリバリと働いているのだ、私は。本当だったらもっと、楽で、単調で、ひどく退屈な仕事に就いているはずだったのに。すべてはベルナルドのせいだ。彼がいい就職先を紹介するというものだから、すぐさまSi,と答えたのが間違いだった。確かに、給料は良かった。破格だった。問題はなかった。就職先が、マフィアの、しかもかの有名なドン・ボンゴレ付きの、使用人だということ以外は。




「おかわりはよろしいですね?」




 有無を言わさない声音でそう呟いて、カーペットを踏みしめた。つっけんどんな自身の口調が許されるのも、このボスあってのことだと理解はしている。風の噂で聞いたが、とある特殊暗殺部隊では、部下が変な声を上げただけで銃やら刃物やらが飛び交い、毎度負傷者が出ているのだという。それにくらべれば、まあ、なんという好待遇な仕事場だろうか。
カッシーナで統一された書斎はまるで物語のワンシーンのようだ。屋敷中の掃除も行き届いているし、働いている人たちは気さくだし、なにより、中庭のバラ園がひそかな私のお気に入りなのだ。気に食わないのはふかふかすぎるモスグリーンのカーペットと、妖しい笑みを浮かべるドン・ボンゴレその人だけ。




「え、おかわり、だめ?」
「勤務時間を過ぎておりますので」
「困ったなぁ」




 まったく、露ほども、困った顔をしていないボスから、コーヒーカップを受け取ろうとして、手を伸ばし、




「じゃあ、君をもらおうかな」




 彼がカップから手を放したのと、ぐいと腰を抱き寄せられたのは同時だった。あ、という私の声は、あまりにも小さく、彼のやわらかい唇に簡単に吸い込まれていった。ボスの座る革張りのチェアが小さく軋む。毛足の長いカーペットのおかげか、落したコーヒーカップは割れていないようで。ああ、ちがう、そんなこと、どうでもいい、どうして、なぜ、私の目の前には、ボス、が、




「口付けをするときは、目を閉じるものじゃないの?」




 ねぇ、
 後頭部に回された手のひらが、私の抵抗をすべて奪っていく。耳元で名前を囁かれて、ぞわりと背筋が粟立った。そんな私の反応に気を良くしたのか、ボスはクツリと笑って耳に唇を這わせる。「や、めてください」今にも消え去りそうな拒絶の言葉に絶句した。なんだ今の声は。どうしたの私、しっかりしろ、これじゃあ本当にうら若き、




「全然、やめて欲しそうに、聞こえない」




 がぷり、歯を立てられてびくんと震える躰。それに気を良くしたボスが、さらに強く耳を食んでくる。獰猛な肉食獣を連想させるそれに、目の奥がちかちかした。するりと腰をなぞる手が、いたずらに太ももを這って。「や、め、んむ、」二度目の拒絶は唇で塞がれた。目を見開いたその先、鳶色の瞳と視線が合って、カッと身体を熱が駆け巡る。反射的に眼を閉じたのと、ぐちゅりとぬめったそれが侵入してきたのは同時だった。




「ん、ふ、」




 強引に捩じ込まれた舌が、私の口内で暴れる。あまりに激しいキスだったので、歯がぶつかり合って痛んだ。それにひるんだ私を、彼が見逃すはずもなく。ねっとりと舌を絡められて、思わず甘い声が漏れる。強く吸いつかれ、舌先で擦られ、翻弄するようなそれに眩暈がした。探るような舌先に上あごを舐められ、目の前が霞んだ。支えるボスの指に力が入ったと思ったら、さらに舌を突き立てられてえづきそうになった。幾度となく交換されるお互いの唾液に、気がついたら夢中でボスの舌を追いかけていた。




「っふぁ、ん、」
「君のためにリストランテを予約してあるんだ。夜景が見える」




 べろりと私の喉を舐めながら、ボスが楽しそうに囁く。最後の抵抗とばかりに彼の胸を押している、私の両腕がひどく滑稽だ。ブリオーニのシャツが、私の指先でくしゃくしゃにされていく。拒絶しているのか、受け入れているのか、もう私にもわからなかった。彼が触れている部分が熱くて熱くて、火傷してしまいそうだ。がしりと掴まれた腰がびりびりと震える。ボスが支えてくれていなかったら、疾うに床に崩れ落ちていた。




「だめです、ボス、」
「なんで?」
「だって、奥様が、」




 必死で紡いだ言葉は、三度彼の唇で塞がれた。後頭部に添えられた左手が、するすると私の首筋をなぞる。首元のスカーフがするりと外される間にも、ボスの舌先は愛撫するように私の中を嬲った。ぷつり、第一ボタンが飛び散る感触、私が勘違いしてしまいそうなほど、愛おしそうに、鎖骨をなでてから、ボスはやっと唇を解放した。




「俺に妻があろうとなかろうと」
「っぁ、」




 君には関係ない、そうだろ?
 彼の声はまるで麻薬だ。するすると唇は鎖骨に落ちていき、ピリリとした痛みの後、そこに華が咲く。それを爪先でなぞりながら、ボスはひどく愉しげにほほえんだ。「ミルク色の君の肌に、よく映えるね」胸元のボタンが外され、ねっとりと侵入してくる角張ったてのひら。冷たいその指先が触れる場所が、熱をもったように、あつくて、




「だ、めです、ボス、」
「大丈夫、君が黙っててくれれば、何も問題ない」




 これは、俺と君との秘密、だよ。
 ね? 細められた瞳にすべてを悟る。ああ、最初から私に拒否権など。












* * *












、コーヒーを一杯持ってきて」




 勤務終了間際。電話口の声はひどく愉しげで、それがいちいち癇に障る。用件だけ伝えてがちゃりと切れたそれに、言いようのない感情が駆け巡って受話器を睨みつけた。「どうしたの?」「いつものコーヒーよ」「またこの時間に? ツイてないわねぇ」「どうしてあんな苦いもの、飲めるのかしら」「呑んでいればそのうちクセになるものよ。じゃ、私はお先に失礼するわ」Ciao! 手をひらりと振って、リアは扉から姿を消した。溜息をついても、それを聞くものはここにいない。仕方なく、淹れたてのコーヒーを手に、屋敷の中心部、ひときわ立派な扉をノックする。




「ボス、コーヒーをお持ちしました」
「ありがとう」




 扉を開けた先、にっこりとほほ笑む姿に眉を顰める。その笑みだけで疼く躰に、気付かないふりをして。




「ね、今晩どう?」
「お断りします」




 そう言うくせに、私の腕は、強引な彼の指先を拒むことなどなくて。唇が重なる前に、そっと瞼を下ろした。「そのうちクセになるものよ」リアの言葉が頭をよぎる。ああ、どうして彼のキスは、こんなに甘いのだろう。
















コーヒーカップ





中の秘め事

























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130820  下西 ただす



これはリハビリが必要である……。