「ふむ……」
おもわず声が漏れた。雲が流れ、月が顔を出す。まぶしさに目を細めてから、ちびりと杯の酒を通した。喉を熱が通り過ぎる。
「ひとりで月見とはさみしいものだな」
振り返れば二間ほど離れたところに鉢屋が立っていた。不破と鉢屋の明確な違いなど分かりはしないが、月夜に照らされてにやりと笑うその顔は、不破があまりしない表情だ。なにより纏う雰囲気が不破とは違う。飄々と屋根を伝い、鉢屋は音もなく隣へ腰掛けた。ふわりと漂うシャボンの香り。
「風呂上がりか?」
「誰かさんの気配が屋根の上からしたもんでね。こんな月の明るい夜に何をしているのかと」
あたりはまれにみるほど静かだった。秋の虫がリイと鳴いているだけで、そのほかは風の音さえ聞こえない。それもそうか。明日は満月、月がこれだけ明るければ、外に出るのを控える生徒は少なくないだろう。
「今日は中秋の名月じゃないか。月見をせずに何をしろというのだ」
「ああ、そういえばそうだったな」
鉢屋が空を見上げる。先ほどまで月にかかっていた雲は、柔らかい風に流されてどこかへと消えてしまった。鉢屋の横顔を見つめる。……口が開いている。
「…………なに笑ってるんだ」
「いや、なんでも」
むすりとした鉢屋が不機嫌そうに鼻を鳴らす。それでもくつくつと笑っていると、完全に拗ねてしまったのであろう、ふいと顔を逸らされてしまった。
「怒るな、ほら」
「……酒で誤魔化そうとするな」
「でも、いい酒だろう?」
「どこでこの酒を?」
そりゃあ、秘密ってもんさ。くんくんと匂いを嗅ぐ鉢屋に杯を渡してやる。ちびりと飲んでから、その辛さに顔をしかめる。それがまた可笑しくて、くつりと笑みが漏れた。
「鉢屋は、まだ子どもだな」
「お前と歳は変わらないぞ」
「それに、その杯は、本当は酒を飲むためにあるんじゃない」
「……どういうことだ?」
「昔の貴族はな、杯に映る月を見て、月見を愉しんだそうだ」
鉢屋が手元の杯を見詰める。小さく光るそれが、水面で揺れていた。
「月は、人を狂わせる力をもっているから」
だから、直接眺めてはいけないんだぞ。
顔を上げた鉢屋は目を細めた。ぴりり。空気が、変わる。じい、と見詰められて、思わず鳥肌が立った。
「……成程な。手元の月が、自分のものだというわけか」
再び視線を手元に戻し、水面に浮かぶ月を見詰めたかとおもうと、鉢屋は杯の酒をぐいと一度に飲み干してしまった。
「あ……」
刹那。
がたりと瓦が悲鳴を上げた。突然のことに反応しきれず、頭を打ち付ける。ずきりと痛み、狭まる視界に、煌々と輝く月が映り込む。すぐさま、それに重なるように、鉢屋が顔を覗き込んできた。
「おまえの、」
ぞくり。
鉢屋の指先が額を掠める。前髪を直したその指は、そのまま頬へと降りてきた。
「瞳に映った月も、私のものだろう?」
月は、人を惑わせる。
月は、人を狂わせる。
瞼を下ろしたら、ふわりと酒の香が、風に乗って届いた。
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100922 下西ただす
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