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切原SS



「チューシューのメイゲツ?」
「うん、そうだよ」


ふふ、と笑いながら先輩は目尻を下げる。部室には俺と先輩しかいない。幸村部長も真田副部長も、部活仲間は皆すでに帰ってしまっていた。当たり前か。部室の時計はすでに9時を回っている。唯一先輩だけが、薄暗い部室で俺に笑みを向けていた。


「なんスか、それ」
「旧暦の十五夜のことだよ。昔の貴族は、月見をしながらお酒を嗜んでいたんだ」


俺の準備が整ったのを見た先輩は、持っていた文庫本を静かに閉じた。パイプイスとアスファルトが擦れる音が、耳障りだ。外ではリィリィと虫が鳴いている。なんという虫なのだろうか。目の前の先輩に訊ねれば、すぐに答えが返ってくるような気がした。柳先輩とは少し違う知識。通称「本の虫」と呼ばれている先輩のそれは、データというよりも教養に、近い。


「ふーん……あ、先輩、お待たせしました」
「ううん、大丈夫だよ。さあ、帰ろうか」


ちりん、先輩の持つ鍵が小さく音を立てた。6時間目の授業、その居眠りの代償は部活後のランニングだった。誰にも起こしてもらえなかった俺が、教室で目を覚ましたのは部活が開始してから一時間も後のこと。もちろんそれを幸村部長はじめ先輩がたが許すはずもなく。「たるんどる! 部活が終わったら校庭20周だ!」「8キロなんて甘いね、真田。赤也、40周だよ」にっこりと笑った幸村部長に敵うはずもなく、部活が終了してからひたすらグラウンドを走っていたのである。その付き添いとして、今晩の予定が全くない先輩が、鍵当番を引き受けてくれたのだ。


「う、わ、すげェ月」


溜息とともにそんな言葉が漏れた。真暗な空にぽつんと光る月は、煌々とグラウンドを照らしている。少しも欠けていないそれは満月のようだった。陰影のはっきりした雲が、空をゆっくりと流れて行く。がちゃり、ちりん。背後で、こもったような声が聞こえた。


「直接、見ないほうがいいよ」


俺が振り返るよりも早く、先輩は俺を追い越して行った。肩のあたりで揺れる髪が、光を反射しているようで酷く幻想的だ。俺から二三歩はなれてから、先輩はくるりと振り向いた。ちりん。月が眩しすぎるのか、辺りが暗すぎるのか。先輩の表情は全くと言っていいほど窺えなかった。


「せ、んぱい?」
「直接見たらね、盗り込まれてしまうよ」


月にはね、人を惑わせる魔力があるんだよ。
ぶわり、全身の毛穴が開いたかのような感覚。ぞわり、と背を這う何かは、瞬く間に躰中に広がっていった。耳元でどくりと心臓が跳ねる。知らず知らずのうちに呼吸が浅くなって、自分のそれが酷く耳に付く。俺は一歩も動けずに、先輩を見つめるしかなかった。咽が、乾く。


「 切原」


キリハラ、とそう呼ぶのは先輩だけだ。まるで愛を囁くかのように呼ばれた己の名に、心臓を鷲掴みにされたかのような悲鳴が頭を駆け巡った。月を背負った先輩の瞳は、闇の中でも確かに熱を帯びている。吸い込まれるかと、思った。


「     、」


なにかを渇望するような声は、ちりんという音に掻き消された。もう月は見えない。瞼を閉じたら、先輩が笑ったような気がした。








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110912  下西 糺