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蛭魔SS

 もう外はすっかり暗くなっていた。下校時刻など、とうの昔に過ぎ去ってしまっている。それでも、私はここから動くことができないでいた。女々しいと言われてしまえば、それまでなのだけれども。開いたままのハードカバーは、数刻前から一枚もめくれていない。閉め切った教室、がたがたと唸るヒーターだけが、この静かな空間で動く唯一のものだった。


「……」


 外はもう暗い。だから、たとえ誰が歩いていたとしても、まるっきり、わかりなどしないのだ。もしかしたら、それを、私は待っていたのかもしれない。見たくもないものを、見てしまったから。消そうとしたのか、その光景を。


「……かえ、ろー」


 呟いたけれども、席を立つ気になど到底なりえなかった。焼き付いてしまった“それ”をまた思い出して、息が詰まった。どうして、の疑問符は、浮かんでからすぐに消える。どうしてもこうしても、ない。私が捨てられて、彼に新しい彼女ができた、それだけ。ただ、別れ話が急だったのと、ただ、別れた翌日に、知らない後輩の女の子と、彼が仲睦まじく帰るその様を目撃してしまっただけの話。なるほどね。呟きが口から漏れることはない。なるほどね。やっぱり男は“護ってあげたくなるような”女の子が好きなわけですか。はいはい。どうせ私は口うるさいし、可愛くもないし、お世辞にも護ってあげたくなるようなか弱い女ではないですからね。あんな男、こっちから願い下げ。だらしなくて、自分勝手で、そのくせ優柔不断で、変に優しくて、それで、それで


「あ……」


 頬を伝う違和感に指を這わせると、指の先がしっとりと濡れた。ああ、もう、だからいやなんだ。こんなの。まだ好きですって言ってるようなものじゃない。なにか、口から漏れそうになったものを、必死に飲み込んだ直後だった。


 カシャリ


 わずかな音だったけれど、周りが静かだったせいかそれは酷く耳についた。反射的に顔を向けると、ドアの所に男が立っている。揺れる金髪に、尖った耳。その男の手にはデジカメが握られていて、遅れて気付く。ああ、どうやら撮られたみたい。


「ケケケ、脅迫ネタゲーット」


 楽しそうにカメラを振りながら、男―――ひとつ年下の蛭魔君はにやにやと笑った。唇から覗く犬歯が、蛍光灯の光を反射する。私は、ぐい、と乱暴に目元を擦ってから、また彼を見つめなおした。あいかわらずにやにやと唇を歪めながら、蛭魔君はこちらに歩みを向ける。その顔は非常に愉しそう、だ。


「こんな遅くまで人のあら探し? ご苦労様ね」
「まさかあの気の強い風紀委員長様様が、失恋ごときで泣いちまうなんて、マニアが聞いたらそれこそ泣いて喜びそうだな」


 マニアって何よマニアって。
 心の中で突っ込んでから、私は椅子から立ち上がる。ギィ、と擦れた音が、ひどく耳についた。蛭魔君の噂はそれこそたくさん聞いているけれど、そのどれを取っても損にしかならないことなど明白だ。触らぬ悪魔になんとやら。出来るだけ彼との接触は避けるべきである。


「帰るのか」
「ええ、帰るわ」


 私よりも二つ前の机に、どっかりと座った彼がこの場を立ち去る可能性は低い。ここはさっさと退散するのが最善の策だろう。鞄を机の上に置いて、ポーチやら筆箱やらを無造作に突っ込んだ。蛭魔君の視線が突き刺さる。俯いたままだったから、嗤っているのか、無表情なのか、まったくわからなかった。鞄を肩にかけて、無言で隣を通り抜ける。と、すれ違いざま、左手首を、ぐん、と引っ張られた。


「っな、に?」


 反射的に振り向くと、驚くほど真剣な表情の蛭魔君と目が合って、思わず息を呑んだ。掴まれている左手首が、じわりと熱を持つ。伸ばされた手が頬に触れて、びくりと体が反応してしまった。まるでキスをするかのような近さで、蛭魔君は私の瞳を覗き込んでいる。目が、逸らせ、ない。親指で優しく目元を撫ぜられて、思わず目を瞑ってしまった。


「もう泣いてねーな」


 囁かれたそれに、はっと体の感覚が戻る。反射的に突き飛ばすと、予想外に蛭魔君はなんのためらいもなく私の腕を離した。顔が火照って熱い。ぐるぐると脳味噌が回り出しそうだった。いま、いったい、なにが、


「な、な、」
「ケケケ。ショック療法はお気に召さなかったか?」
「いま、なにを、しようと、」
「あ? なにって、キ、」
「うるさい黙れ死ね!!」


 にやにやと嗤う悪魔に、さらに顔に熱が集まる。羞恥よりも憤りのほうが優っていた。この男、最低! 本能のままに、そばにあった黒板消しを目の前の男に投げつける。それがヒットしたかどうかも確認せずに、教室を飛び出した。どうせ、チョークまみれになるようなヘマはしないんだろう、あの男は。きっと、腹の立つほどの笑みを浮かべながら、余裕綽々で避けるに違いない。それを想像してしまって、またむくむくと苛立ちが募る。明日、ぜったい、規則違反で、つかまえて、やる! 激情に駆られるまま、私は校門を駆け抜けた。彼の術中に嵌ったと気付くのは、もうすこしあとの話。



失恋(悲しみはどこかにふっとんだ)








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110303  下西 糺






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