「ただいまあ」 間延びした声が玄関に響いた。返事はない。ああもう、聞こえているくせに、無視をするなんて、本当に。溜息をつきそうになって、それを呑みこんでから首をふった。無駄だ。唯我独尊を体現しているような兄に、言ったところで素直に納得などするはずがない。脱いだローファーをきれいに並べてから、学校指定の鞄を背負いなおした。重くて厭になる。自室の扉を開けて、放り投げるように鞄を置いた。すぐに足はリヴィングへ。扉をあけると、珈琲の匂いが鼻をついた。 「珈琲、淹れたの?」 「まあね。も飲む?」 「……いる」 リヴィングにおいてあるデスクトップパソコンから目を逸らさず、兄さんはわたしに問うた。脹れっ面のわたしがぶっきらぼうに所望すると、仕方がないね、と呟いて腰を上げる。キッチンへと向かう、その後ろ姿を追いかけた。ぱたぱたとスリッパが音を立てる。 「もしかして、お仕事中だった?」 「ああ、大丈夫だよ。キリがいいからね。休憩」 「ふうん」 ギリギリ二桁年の離れた兄はなんでもないように呟いた。ずっと兄さんと二人暮らしをしているけれど、わたしはいまだに兄さんの仕事をしらない。知っているのは、誕生日と、好きな食べ物。それから、お風呂が好きなことと、喧嘩が強いことと、結婚はしていないこと。たぶん。彼女もいないらしい。兄さんは秘密が多いけど、わたしに嘘はつかない。絶対に。 ごりごりと、低い音が部屋に響く。手慣れた手つきで豆を挽く兄さん。隣の家だろうか、夕食の支度をしているのか、なんだか懐かしい匂いが漂ってきた。おなかすいたなあ。 「今日のごはん、なあに?」 「魚にしようと思ってるけど。は何か食べたいものあるの?」 「うーん。特にないかな。煮物でもつくる?」 「いいね」 兄さんの口元がほんのり緩む。べつに料理がすごく得意というわけではないけれど、兄さんはわたしの煮物だけはおかわりしてくれる。その事実になんだか胸が疼いて、視線が泳いだ。結局また、兄さんの指先に戻ってしまうのだけれど。豆を挽きながら、兄さんはわたしに問い掛ける。 「、高校はもう慣れたの」 「うん。まあまあかな」 「楽しい?」 楽しい、のだろうか。楽しくないと言えばうそになるのだけれども。頭の中で、今日一日を振り返ってみた。朝、友達とあいさつして、おしゃべりして、授業を受けて、ご飯を食べて、うたたねして、そして帰宅する。毎日がおんなじだ。決して、つまらないわけでも、ましてや厭なわけでもない。 「家のほうが、安心する」 「……そう」 コーヒーメーカーに挽きたての豆をセットしながら、兄さんは呟いた。その声がちょっと嬉しそうに聞こえたのは、わたしの錯覚なのかな。「、」兄さんがわたしの名前を呼ぶ。その声が、いちばん、好きかも。振り向いた兄さんは、わたしの髪を撫でながら言った。微笑んでいるのは、気のせいなんかじゃない。 「制服、皺にならないうちに着替えておいで」 「はあい」 着替えておいで、なんて言っておきながら、兄さんはわたしの髪から指を放す気配を見せない。くるくると指先に絡めては、すっと撫でる。なんだか少し恥ずかしくて、そしてくすぐったかった。 「兄さん、くすぐったいよ」 「ずいぶん伸びたね、髪」 「そう?」 「うん。今朝結った時も思ったけど」 毎日、珈琲を淹れている間にわたしの髪を結う、それが兄さんの日課だった。わたしは兄さんほど髪を結うのもうまくなければ、兄さんの淹れる珈琲よりもおいしいそれを飲んだことがない。 「毎日見てるから、気付きにくいんだよ」 最後にわたしの頭をひとつ撫でてから、「さあ、」って言って兄さんは、ぽんと肩を叩いた。こくんと頷いてから、わたしは踵を返す。リヴィングの扉に手をかけたところで兄さんは「ああ、」と呟いた。なんだろう。振り返ると同時、兄さんの左手が、扉を優しく閉めた。するりと腰にまわされる右手。覆いかぶさるように、ぐん、と兄さんの顔が近付いて、わたしは反射的に目を閉じた。齧り付く格好なのに、触れるだけの唇は酷く優しい。がたり。身じろぎすると、背中に当たる扉が小さな音を立てた。 「ん、兄さん?」 「おかえり、」 うん、ただいま。 111121 下西 糺 |