がちゃり かすかに響いた音、たゆたう意識は急速に浮上した。しかし、水が引いていくかのように冴えていく頭に対して、身体はまだ眠りから覚めていないらしい。なんとか動かそうとしても、鈍い反応しか感じることができなかった。ぎしり。ベッドのスプリングが悲鳴をあげる。襲い来る睡魔を振り払い、瞼を必死でこじ開けると、空色の双眼が飛び込んできた。ぱちりぱちりと瞬きを繰り返したけれども、目の前のそれは消えるどころかゆっくりと近づいてくる。ああ、夢ならばよかったのに。漠然とそう思いながら、感覚の戻ってきた腕を突っ張った。てのひらが、まだ大人になりきれない肩を押す。細身ながらに、しっかりと筋肉のついた肩だった。感情を映さない瞳が、僅かに細められる。さらに見つめあって数秒。しびれを切らしたのは私の方だった。 「……何してるの」 「何って……夜這いです」 声色も、瞳すら揺らがずに紡がれたそれに、思わず重いため息が漏れた。その拍子に、腕の力がゆるむ。それに気付いたのか、さらに体重がかけられて、ぐっとまた瞳が近づいた。私の眉間に皺が寄る。自然、反撃する言葉はとげとげしくなった。 「どこに姉を襲う弟がいるのよ」 「ここにいます。というよりボクはさんのことを姉と思ったことがありません」 出会ったときから。 至近距離でそう呟かれて、思わず言葉に詰まった。フラッシュバック。高級レストラン、豪華なシャンデリアに照らされる中で、私ははじめて母親の再婚相手である黒子さんと、その息子に出会ったのだった。第一印象すら思い出せないほど、彼の影は薄かった。そんな彼に、“見つめられている”と気付いたのは、三度目の食事会である。食卓で話すのはもっぱら母の役目で、口数の少ない私や黒子さんが、ぽつりぽつりと返答する。それが、食事の風景だった。なぜか、彼に話が振られることは極端に少なかったのだ。私自身、同じテーブルに座っているのにも関わらず、彼の存在を忘れてしまっていたことも多々あった。そんな彼が、自分から言葉を発する以外に、私を意識させる行為、それが見つめる、というものだった。不躾な視線などでは決してない、睨みつけるそれでも、観察するそれでもない。形容しがたいその視線が、私の胸を妙にさざ波立てた。気付いてはいけない。警鐘が鳴り響く。気付いては、いけない。だから、視線に、その視線に込められた感情に、気付かない振りをしてきたのだ。なのに、どうして。 「さん、腕をどけてください」 「残念だけど、断るわ」 冷静にそう返したけれども、すでに限界が近づいていた。元々鍛えているわけでもない腕は、微かに震えながら彼の体重をかろうじて支えていた。やはり何を考えているのかすら微塵も悟らせないその瞳は、少しの揺らぎもなく私を見つめている。彼の両腕は私の顔の真横に置かれていた。まるで逃がさないとでも言っているかのようなその体勢に、背筋を冷たいものが走る。感情の読みとれない瞳が、それに拍車をかけた。だめだ、しっかりしなければ。紡ぎだした声は幸い、震えていなかった。 「君、いい加減にして」 「君じゃないです、さん」 「じゃないわ。“姉さん”でしょ」 その言葉に、初めて彼の眉間に皺が寄った。不満げに眼が細められた、その瞬間、ぐっと体重がかけられ、私と彼との距離はほぼ零になってしまった。お互いの鼻先が触れ合っている。かろうじで腕で押さえているものの、それも効果があるのかすらわからなかった。目の前に広がる空色に、吸い込まれてしまうかのような錯覚。「さん、」焦点が合わないほど近くで、彼が言葉を囁く。吐息が唇を撫でて、首筋が震えた。 「さん、ボクには興味ない?」 「……少なくとも、義弟に手を出すほど男に困ってないわ」 「ボクは誰でもいいわけじゃない。さんじゃないと厭だ」 「奇遇ね。私は誰でもいいけど、君ではいやよ」 「テツヤです、さん」 「姉さん、よ」 沈黙。睨みあうかのようなそれに、折れたのは彼の方だった。眉間に皺を寄せたまま瞼を閉じ、小さく息を吐く。彼が身体を起こしたから、両腕が一気に軽くなった。思わず、ほっと息を漏らす。若干しびれてしまった腕に、視線を逸らしたのがいけなかった。がしりと手首が捕まれる。小さな悲鳴が唇から漏れた。 「さん」 捕まれた手首があつい。柔らかい布団に、押しつけられるようにして固定されて、身動きがとれない。どくどくと心臓が激しく唸っていた。油断、した。目前に迫る空色から、目が、離せない。 「だめじゃないですか、油断したら。ボクは男ですから、こうやってしまえば手も足も出ないでしょう?」 力を込めても、びくともしない。私の焦った様子に満足したのか、彼の口元が緩められる。伏せられた空色がぐんと近づいて、そのまま唇の端に口付けられた。湿った熱が、触れたと思ったらすぐに去っていく。完全に硬直してしまった私を見下ろして、彼はふ、と笑みを漏らした。 「今日はここまでにしておきますね」 「…………」 「これでさんも、ボクのこと、男として見るしかないでしょう?」 それでは、ボクはこれで。 先ほどのことなど微塵も感じさせずに、彼は身体を起こし、ベッドから床へと降り立った。ぎしり、とまたスプリングが唸る。扉に手をかけた彼は、振り返って微笑をこぼした。 「では、おやすみなさい、さん」 また、明日。 ぱたん。扉が静かに閉ざされる。残されたのはうるさく悲鳴をあげる心臓だけだった。瞼を閉じれば、広がる空色。ああ、気づきたくなんて、なかったのに。心臓が締め付けられるようだった。こんな感情、私は知らない。 120418 下西 糺 |