Leave me alone!






 窓から吹き込む風が、俺の髪の毛を撫ぜていった。昼下がりの柔らかい空気と、庭ではためく洗濯物の音が、すごく心地いい。うーん、やっぱり天気は晴れに限るよな。風でめくれそうになる本をあわてて押さえる。文字をなぞる幼い指に、違和感はもう覚えなかった。あの日の悪夢も、もう見ない。それでも、瞼を閉じれば、それは鮮明に俺の脳裏によみがえった。


 迫るトラックと、劈くような不協和音。振動、衝撃、訪れる静寂。確かにあのとき、“俺”の命は潰えたのだった。真暗な中を漂い、浮遊し、ゆらゆら揺られ。あったかいなぁ、気持ちいなぁ、だなんて漠然と思っていたら、ばちんという盛大な音とともに、俺は“また”産まれてしまったのだった。簡単にいえば、そう、これがきっと、“転生”というものだろう。いやいやいや、信じられないって言われましても。そんなもの、俺自身が一番信じられないんですけどね。ありえねーって、そう思っているのも事実なんだけど。でもその状態が5年も続いてみろよ。そりゃあ信じるしかねーって。その間、働きながら、女手一人で必死に子育てする母親を一番近くで見てるんだぜ? そりゃあ、新しい人生を前向きに歩むって選択肢が出てくるだろ。目的? もちろん、母さんに幸せになってもらうためだ。定職について、いま必死で働いてくれてる母さんに、恩返しをしなきゃ、これ、男じゃないだろ!! マザコンだって? うるせぇ知ってるよ!!


 そうして先日、めでたく5歳の誕生日を迎えた俺は、母さんが仕事の間、俺らの家を守るという使命を仰せつかっているのだった。いやべつに仰せつかってるわけじゃなくて、勝手に俺が留守番しているのだけれど。でも俺留守番きらいじゃねーし。なにがいいって、自由に読書ができることだよな。隣の家は古本屋で、目がよくみえないジーさんがひとりで切り盛りしている。たまに俺も店番を手伝ってお駄賃をもらっているわけで、そこから一冊二冊掠め取るくらいお茶の子さいさいなわけだ。ほんの数日拝借するだけだから、盗んでいるわけじゃない。もちろん、貸してくれと頼めば、快く頷いてもらえるだろう。でも、そんなこと、できるわけがない。『壁内政治の変遷と其れに伴う情勢変化』だとか、『食糧自給率〜100年の推移〜』だなんて本をあどけない5歳児が借りてみろ。軽く近所の騒ぎになるぞ。俺が前世の記憶を持ったままこの世界に産まれてきたことなんて、この俺以外が知っているはずもないんだから、それは黙っていれば済むだけの話だ。誰にも話さずに、隠し通して、なにもかもを心の奥底に封印しておけばいいのだ。そして、大人になるまでにこの世界の知識を蓄えて、適度な職について、母さんを養っていければそれでいい。欲を言えば、かわいらしいお嫁さんをもらって、小ぢんまりとしたあったかい家に、家族で住めたらいいよなぁ。俺に似た娘と、嫁さんに似た息子と、一人ずつは欲しい。いや、女の子だったら俺じゃなくて、やっぱり嫁さんに似た子がいいな。料理上手で掃除上手な嫁さんと、優しい母さんと、元気な子供と暮らして、母さんの最期を枕元で看取って、嫁さんといつまでも仲良くお茶を啜っていけたら、それだけで幸せなんだけど。


 だから、だから、誰が何と言おうと、どれだけ後ろ指を指されようと、馬鹿にされようと、俺は決して訓練兵になどなりはしないのだ。そのうえ、間違っても、調査兵団なんかに入ったりはしないのだ。もちろん、憲兵団や駐屯兵団にはいれば、それなりに懐も潤うけれど、そうしたら母さんと離れて暮らさなきゃならない。金よりも何よりも、大事なものがあるのを、俺は前世からよォく知ってるわけで。高望みはしない。その代わり、ぜったいに譲らないものは、なにがなんでも譲らないのだ。だから、だから、俺は、訓練兵なんかに、


「やあ、。久しぶりだな」


 思考をぶった切ったのは低く柔らかい声だった。突然の訪問者に背中の毛穴がぶわりと開く。お、ま、び、びびった、じゃ、ねぇ、か、よ!!! 読んでいた本をひざかけの中に突っ込んで、窓からこちらを覗いている男をキッと睨みつけた。まだ幼い顔立ちの中に、すっと通る鼻筋と、凛とした眉が青年を感じさせる。柔和な笑みはそこらへんの大人たちを油断させるには充分だろうけど、俺には効かねェからな、言っとくけど!


「ノックぐらいしろよ!」
「ちょうど窓からが見えたからね。元気にしてたかい?」


 にこりと笑ったエルヴィンは、入ってもいいかい? と扉を指差した。入ってくんな、ときつい口調で返したにもかかわらず、彼は「おじゃまするよ」と言って窓から消えた。ざくざくと庭を歩く音、力強いノックの直後に、ギイイという木の扉が軋む音が部屋に響く。クソが、いまさらノックしたっておせーだろ!


「なかなか休みが取れなくてね。今の生活にもやっと慣れてきたところなんだ」
「あっそ」


 そっけなく返事をして、俺は肘掛椅子から立ち上がった。めんどくせーけど、一応客なわけだし、ミルクぐらいは出してやるか。めんどくせーけど。俺の不機嫌なオーラを感じているであろうくせに、エルはにこにこと笑みを絶やさない。くそ、腐りかけの牛乳を今朝庭に撒いてしまったことが悔やまれる。こいつに飲ませてやればよかった。


「イリーネは? 仕事か?」
「町の食堂。夕方には帰ってくると思うけど」
「そうか」
「ほらよ」


 ゴトン。乱暴にミルクの入ったコップを置くと、気にした風もなく彼は「ありがとう」と微笑んだ。この男の、こういうところが嫌いだ。腹の底は見えないほど真黒なくせに、顔に形づくられた笑みだけが妙に綺麗なのだ。何考えてるかわかったもんじゃねーっつの。そのくせ、こちらの腹の内はすべて読まれているようだからいけすかない。初めのころ、俺の渾身の“子供のふり”も、今では見る影もなかった。どうせガキのふりをしたところで、気付かれて見抜かれて終わりだ。要らない労力を割くほど俺は暇でもバカでもない。結果。必然的に彼への風当たりだけが強くなった。本人は気にしている素振りすら見せないから問題ねーんだろうけど。


「イリーネは元気か?」
「まあまあ」
も元気そうで何よりだ」


 “”。それが新しく俺につけられた名前で、この世界で俺が生きている証だった。俺に与えられたのは、母さんのぬくもりと、そしてこの名前だけだった。父親は、いない。誰なのかも、わからない。唯一分かっているのは、母さんとエルが遠い親戚だということだけだった。それも本当かわかんねーけど。大人はいつだってずるくて、卑怯で、なにもわかっちゃいない。遠い親戚だなんて、そんな言葉、子供が鵜呑みにすると思ってんのかよ。


「それ飲んだら帰れよ」
「イリーネはもうすぐ帰ってくるんだろう? 土産があるんだ」
「はぁ?」
「それに、、お前の話も聞きたいと思っていたんだよ」


 どうだい、調査兵団に入る気になったかい?
 にこりと笑って、エルはいつもと同じ科白を吐きだした。おいおいおい。あのな、何回言ったらわかるんだっつーの。俺は調査兵団どころか訓練兵にすらなる気はねぇって。このままそれなりにすごして、後々はどっかの商人のところに奉公に行って、できればそこを継ぎたいわけ。その商人のオッサンに可愛い娘がいればなお良し、俺のプランに変更はねーの。


「つーか、5歳児を危ない所に誘うなっつの」
「ああ、そうか、はもう5歳か。おめでとう」
「あー……ありがと」
「最近は何かあったのか? 話を聞かせてくれ」


 身を乗り出したエルに、盛大に顔をしかめたけれど、そんな俺にはお構いなし。にこにこと浮かべられた笑みに、思わずため息を吐きだした。ああ、いいさ。どうせ逃げられやしないのだ、急ぎの用事があるわけでもない。付き合ってやることにしよう。なんだかんだ言って、俺はこの年の離れた友人が、嫌いではないのだから。


「そういえば下の毛は生えてきたのかい?」
「帰れ。今すぐ帰れ。サヨナラ」















130626 下西ただす