Nothing's gonna change.






隊長!!」


 背後から声を掛けられて、足を止める。聞き慣れないその声に振りかえった。その拍子に、伸びた前髪が頬を撫でる。うげ、うぜぇ。そういえば前回の壁外調査のあとから、一度も散髪をしていない。そりゃあ伸びるわけだ。雑務が忙しかったのは事実だが、それにしたって尋常じゃない伸びっぷりだ。前髪が伸びるのが早い人間は変態だと言ったのは、たしか同僚の奇人だっただろうか。


「それにしたって伸びすぎだよな」
「はい?」
「いや、なんでもねーよ」


 んで、どうした?
 それほど身長の変わらない青年を正面から見据えると、男の瞳に緊張が走る。青年、というよりも、少年といって差し支えない年齢だった。ぴしりと伸びた背筋と、不安そうに寄せられた眉。まだ皺の少ない、新しい兵団服。なるほど、聞き慣れないはずだ。きっと会話をするのが初めてであろうこの青年は、間違いなく今年入団してきた新兵の一人だった。


「はい、エッゲルト隊長から隊長へ、書類を預かって参りました!」
「おーサンキュ。つか、隊長ってくすぐってーんだけど。でいい」
「と、とと、とんでもない!! 隊長を、そんな、」


 差し出された書類を受け取って、何の気なしにそう述べれば、青年はぶんぶんと両手を振った。いやいや、俺そんなすごくねーけど。とんでもないって、なにがだよ。思わず眉間に皺が寄ってしまったのだろう。俺の表情の変化に、少年はサッと顔色を変えた。「すすす、すみませんっ!!!」ピシリと音が鳴りそうなほど綺麗に腰を曲げた彼の指先が、緊張のためか小刻みに震えている。いや、だから、俺、怒ってねーよ?


「え、とりあえず顔上げてくんね?」
「し、しかし、あの、自分は、」
「いやいや、俺怒ってねーから」


 だから、もっと肩の力抜けって。
 ぽんと彼の肩に手を置いて、二カッと微笑む。それに安心したのか、少年がへらりと安心したように笑った。まだ幼さの残るその表情に、こちらまで癒される。そうそう、兵団にはもっと癒しみたいなモンが必要なんだって。他人を馬車馬のように扱き使う上司とか、変態極まりない同僚とか、クソ生意気で口ばっかり達者な部下とか、ましてや無愛想なチビ野郎なんて、御免被りたいのである。俺が求めているのはそう、殺伐とした日常に疲れ切った俺を癒してくれる、


「……お前みたいな純粋な部下を持って、エッゲルトは幸せだな」
「い、いえ! 自分など、まだ未熟者で……」


 照れながらも謙遜する姿に感動して涙が出そうだ。謙虚だ。謙虚すぎる。すばらしい。彼の爪の垢を煎じて彼奴等に飲ませてやりたい。できればそう、傍若無人で潔癖症、愛嬌の欠片もないアイツの、咽の奥に突っ込んでやりてェ。ついでに拳の一発や二発ぶち込んで、


「……お前等、そこで何をしている」


 不機嫌そうな声が耳に飛び込んできて、俺の気分は一気に底辺まで突き落とされた。う、げ、今日は本当にツイてない。朝から頭痛に悩まされるし、書類を床にぶちまけるし、朝食のパンは焦げているし。その上やつに遭遇してしまうなど、これ以上の災難があるだろうか。溜息をついた俺とは対照的に、名も知らぬ少年は、緊張した面持ちで背筋を伸ばす。きつく握られた拳を、ドンと胸に叩きつけるその様子に、自身のカンが外れていないことが分かった。ああ、今日は本当にツイていない。


「……何をしているのかと、訊いているんだが?」
「あ? うるせ、」
「エッゲルト隊長より隊長へ、書類を届けに参りましたッ!」


 俺の台詞は少年の大声に掻き消された。少し震えたその声に、リヴァイはちらりと視線を少年へと移す。ぐ、と唇を引き結んだ少年の肩が、ぴくりと動いた。まるで値踏みするかのような視線リヴァイの視線に、彼が息を呑んだのがわかる。もちろんリヴァイには何の気もないのだろうが、それだけ目つきが悪けりゃガンとばしてるようなモンだっつーの。少年の米神から、小さな汗が垂れた。


「……エッゲルト隊の新人か」
「ハッ!! 今年から配属されました、調査兵団ロイ・ビルクナーであります!」


 緊張で裏返りそうになりながらも、少年は声を張り上げた。そうか、彼はロイくんというのか、うんうん、素敵な名前だな。素敵な名前すぎて、殴りたくなる。何をって、俺の気分を急降下させた張本人のリヴァイを、である。そういえば一週間ぶりのその顔は、以前よりもだいぶ“マシ”になったように思う。相変わらずの隈と鋭い瞳を除けば、の話だが。それにしても、本当に憎ったらしい横顔である。喧嘩を売るように見下ろせば、同じく攻撃的な視線が帰ってきた。薄い唇が開かれる。


「で、お前はここで何をしている、
「俺がどこで何をしてようと、お前に関係ねーだろ」
「関係があるから言ってんだ糞野郎」
「うるせェ黙れチビ」
「……叩き斬るぞ」
「やれるもんならやってみやがれ」


 地を這うほど低い声での応酬。刃のように鋭い言葉に、周囲の空気がピンと張りつめたのがわかった。リヴァイの瞳がスッと細まる。は、やってやろうじゃねーの。俺さ、朝からイライラしてたワケ。右足を半歩さげて、攻撃の態勢をとると、リヴァイの身体から余分な力が抜けたのがわかった。はいはい、そっちもやる気なわけね。きゅ、と拳を軽く握って胸元まで持ち上げる。そういや、この間の殴り合いも引き分けだったよな。丁度いい、あの時の決着をつけてやる。


「負けても寝不足のせいにはできねーよ?」
「心配するな、モヤシのお前には負けねぇ」
「うるせえよ、チ、」
「や、ややややめてくださいっ!!!」


 一歩踏み出そうとした俺の前に立ちはだかったのは、先ほどから事態を傍観していたロイだった。あ、やべ、わすれてたわ。可愛そうなくらい震えて、目には涙を浮かべている。そりゃ、まあ、ビビるわな。どれほどリヴァイが、チビ、チビだろうと、一応、表向きは、人類最強と言われているらしいからな。そんな人間が眼の前で喧嘩をおっぱじめようだなんて、普通の人間だったら尻尾巻いて逃げだしてるわ。


「ロイ、お前意外と勇気あんなー」
隊長も、やめてくださいっ!!」
「えー、」
「……興を削がれたな」


 眉間に皺を寄せたまま、リヴァイはくるりと踵を返した。濃緑のマントが翻る。その背に描かれた自由の翼を見下ろしていると、リヴァイが肩越しにこちらを振り返った。


、エルヴィンから伝言だ。“十分以内に執務室に来るように”」
「は、え、オイオイオイそれいつの話だ?! 何分前の話だよ?!」
「さあな」


 歩きだしたリヴァイを、射殺さんとばかりに睨みつける。俺の殺気に気付いているだろうに、人類最強様は廊下を曲がって視界から消えた。くそう、あの角の向こうで、きっとほくそ笑んでるに違いない。嘘だろ、十分以内とか、間に合わねーよ、確実に……。


「えっと、あの、隊長、」
「ああ、ロイ、悪ィな。用事できちまった」


 不安そうな彼の頭を、ぽんと優しく撫でてやる。心配そうに、それでもへにゃりと笑った顔に、こちらまでつられて笑いそうになってしまった。ああ、俺の部下も、これくらい愛嬌があったら、まだ、可愛がってやったんだけどな。つっけんどんで高飛車な部下の顔を思い出して、げんなりと首を垂れる。ついでにエルからの伝言も思い出して、気分はまるで沼の底のようだ。


「じゃ、書類サンキュ」
「はい、失礼します」


 びしりと敬礼するロイに、笑いをひとつ。くるりと背を向けて、向かうはエルの執務室である。ぐう、と腹の虫が鳴いた。そういえば、あと少しで昼飯の時間だ。それまでに解放されればいが、まあ、望みは薄いだろう。胸元から懐中時計を出して時間を確認する。俯くと、前髪が視界を掠めた。くっそ、やっぱ今日切ろうそうしよう。バチンと蓋を閉じたそれを、きゅっと握った。少しの変化と、繰り返される日常。そう、なにも変わりはしない。


「じゃあな、ロイ」


 振りむいた先、少年が照れたように笑った。















130916 下西ただす