05:さかな、なみだあめ

 図書室は、静かだ。たまに、ぴちゃんという音がどこからか聞こえてくるだけで、あとは時計の針の進む音しかしない。耳を澄ますと、微かにサー、という雨の音。どうやら、まだまだ雨はやまないみたい。手を止めて、ちらりと窓の外を見ると、灰色にくすんだ校庭が見下ろせた。そのまま、図書室を見渡す。あれ、青峰くん、いないなぁ。


「あおみねくーん」


 大声をだすのをためらって、なんだかわからないけど小声で呼んでしまった。返事はない。わたしよりも高い本棚の間を、足音をたてないように歩き回る。あ、いた。そんなに広くない図書室の、一番すみっこ、本棚の間のちいさな隙間。そこに大きな身体をねじ込むようにして、青峰くんは座り込んでいた。両の瞼は、しっかりと閉じられている。


「青峰くん」
「……」
「起きてるんでしょ」
「……」
「もうだまされないからね」
「…………チッ」


 肩眉をつり上げて、青峰くんは頭の後ろで組んでいた腕をおろす。どうやら、わたしがたぬき寝入りに気づいたことが気に食わないらしい。「なんだよ」という口調が刺々しかった。


「はい、これ。前言ってた、お勧め本」
「『かもめのジョナサン』?」


 その表紙を見つめてから、サンキュ、と青峰くんは歯を見せて笑った。どきん、と跳ねた心臓。わたしのそれに気づくはずもなく、青峰くんはその本をエナメルバックにぽいっとつっこんだ。もう、本は大切にって、あれほど。くちから飛び出しそうになったことばは、直前でごくんとのみこんでしまった。かばんから覗く雑誌、Basketballの文字。「ね、青峰くんって、」気づいたら、言葉にしていた。


「バスケ部だったんだね、知らなかった」


 一瞬、青峰くんは大きく目を見開いた。それから、ふい、と視線を逸らしてしまう。伏せられた瞳。ちょっと迷ってから、わたしは続けて唇をうごかす。


「部活、行かなくていいの?」


 青峰くんはこっちをみない。ああ、この表情、知ってる。いつもいつも、窓の外をみているときの、それだった。いまなら、わかる。この瞳をしてる青峰くんが、考えてることはひとつしかない。いつだって、青峰くんは、ひっしで、つらそうで、苦しそうで、


「行く必要ねーよ」
「でも、」
「練習も、必要ねー」
「……」
「俺に勝てるのは、俺だけだ」


 わざと乱暴に、吐き捨てるように、青峰くんはつぶやいた。うそだ。青峰くんは、青峰くんに、うそをついている。部活に行きたくないのも、練習をしない理由も、ぜんぶうそだ。ほんとは、ほんとは、青峰くんは、どうしようもないほど、バスケが、好き、なんだ。じゃなきゃ、そんな、苦しそうな顔、するはずない、もの。そんなに、泣きそうに、


「ねえ、青峰くん、」


 ゆっくりしゃがみ込んで、青峰くんの膝上、わたしよりも大きい手に、自分のそれを重ねた。青峰くんは、びっくりしたように顔を上げたけど、すぐにまたそれを伏せてしまう。すこしだけ、拒絶するようなそれに、ぎゅ、と心臓が、掴まれたように、痛む。でも、


「好きなことは好きだって、言っていいんだよ?」


 するり、唇から言葉がこぼれた。


「やりたいことは、やっていいんだよ。もっと、自由でいていいんだよ。だれも、青峰くんをせめたり、しないよ」


 青峰くんは、わるくないよ。
 こころのことばが、そのまま、ぽろぽろとこぼれてるみたいだった。青峰くんに言ってるのか、じぶんに言い聞かせてるのか、それすらもわからないけど、わたしは苦しくて、苦しくて、必死で、息をするみたいに続けた。あたまのなかはぐちゃぐちゃで、でもくちびるはとまらなくて、ちぐはぐだ。目が熱くなって、苦しい、けど、青峰くんのほうが、もっと、苦しくて、つらくて、かなしいんだ。


「誰だって、ひとりだから、だから、誰かそばにいてほしいって、誰かのそばにいたいって、そうおもうんだよ」


 胸が熱くなって、目の前の青峰くんが、揺らいでただよった。鼻がつんとする。きゅ、と、青峰くんの指先を、強く握った。あおみねくん、あおみねくん、


「大丈夫だよ、青峰くん」


 大丈夫、だよ。
 ささやくようにそうつぶやいたら、手首を捕まれた。ぐん、と引かれて、そのまま青峰くんの胸の中へと飛び込んでしまう。あ、という声を上げる間もなく、背中に腕がまわされて、ぎゅ、と力強く抱きしめられた。上から降ってくる青峰くんの声。


「おまえ、なんで、泣いてるんだよ」


 また、ぎゅって強く抱きしめられた。青峰くんはすごく大きくて、わたしなんか、すっぽりうまってしまう。苦しいくらいに抱きしめられながら、ぱちり、ぱちり、瞬きをする。ぽろぽろと流れるなみだはとまらない。なんで、泣いてるって、だって、青峰くんが、


「あおみねくんが、泣かないから、」わたしがかわりに泣いてるんだよ


 掻き消えてしまいそうなほど、ちいさな声。青峰くんの大きな両手が、わたしの頬に触れた。やさしく包まれるそれにうながされて、顔を上げる。泣いてるような、笑ってるような、困った顔をして、青峰くんはわたしをみつめた。親指で、やさしく、やさしく、涙を拭われる。


「おまえ、ほんと、わけわかんねーな」


 震えた声。揺れる藍色が近づいてきて、わたしはゆっくりと瞼を閉じた。ふわりと柔らかい熱が、唇に触れる。


、」ありがとう。


 名前を呼んだその唇が、またわたしのそれと重なる。ひどく優しいそれは、少ししょっぱかった。物音ひとつしない図書室と、降り続ける雨。
 音を立てずに降る雨は、彼の涙に似ていた。












120508 下西糺