06:さかな、すれちがう

 どきどきどき。
 耳元で心臓が唸ってるみたいだった。すれ違う人みんなが、こっちを見てる、気がする。視線を合わせないように俯いてから、足をもっと早く動かした。ううう、知らない人、ばっかりだ。あたりまえだけど。いくつかの教室を通り過ぎて、おもむろに立ち止まる。ここ、だ。青峰くんの、教室。


「し、失礼しまーす……」


 すっごくちいさな声で呟いてから、こっそりと中をのぞく。昼休みが始まったばっかりだったから、教室内はすこしざわざわしていた。できるだけ目立たないように気をつけながら、きょろきょろとあたりをみわたした。青峰くん、いない、なぁ。きゅうに心細くなって、持っていた紙袋をぎゅ、と握る。ふわりと、チョコのかおりが漂った。ブラウニー、放課後に渡そうと思ったんだけど、もし会えなかったら困るからって、持ってきたのに。青峰くんがいないんじゃ、意味なかったなぁ。ぱちり、知らない男の子と眼があって、ぐらりとこころが不安に揺れた。う、ちょっと目立つかな、やっぱり。うん、青峰くんがいないならしょうがないし、帰ろう。そうおもって、くるりと振り返った先、向かい合ったおんなのこに、心臓がどくんと嫌な音を立てた。おもわず唇から零れる、意味のないことば。


「あ、」


 さん、だ。
 彼女もわたしに気付いたらしい。いっしょにいたおんなのこが、「どうしたの?」と隣で呟いたけど、さんはそれを無視した。わたしのことを睨めつけるようにじっと見てくる。すらりとした長い脚に、きれいなかんばせ。わたしを見下ろしながら、さんは口をひらいた。


「こんなとこに、何の用ですか。先輩」


 冷たいその言い方に、ぐ、と言葉に詰まった。だって、今ならわかる。さんは、青峰くんのことが、好きなんだ。だから、この間青峰くんと一緒にいたわたしが、嫌い、なんだ。くちびるをきゅっと結んだままのわたしを、さんは見下ろした。ぎらり、と大きな瞳が光る。


「あ、の。青峰くんに、用が、」
「ダイキは今いないけど?」
「……みたいですね。失礼します」


 ぺこりと会釈して、さんのとなりをすり抜ける。と、その瞬間、握っていた紙袋を、ひったくられて、しまった。あっ、という、わたしの鋭い声を無視して、さんは袋を覗き込む。チョコレートの匂いが、廊下に漂った。


「なにこれ。チョコ?」
「……返して下さい」
「教えておいてあげる。ダイキは、差し入れの類は受け取らないわ」


 ふんと鼻で笑うさんに、カッとあたまに血が上った。顔が熱くなる。なんで、このひとは、こんなに、絡んでくるのだろう。そりゃあ、気に食わないのはわかるけど、わたしだって、完璧人間じゃない、から、こんな態度をとられれば、腹も、立つ。キッとさんを睨みつけると、彼女の眼が細められた。


「青峰くんが、食べたいって、言ったの。返して」
「ダイキがそんなこと言うわけないでしょ」
「ちが、青峰くんが、」
「妄想もいい加減にしてよね!!」


 急にさんが大きな声をだしたから、周りの生徒が一斉にこっちを向いた。さんの、友達みたいな人達がにやにやと笑いながら小声でなにか言っている。「きもーい」「やばくない?」「ありえない」。震えだした右手を、強く握った。怒りのような、かなしみのような、黒くて重たいものがぐるぐると渦巻く。いやだ、帰りたい。でも、ここで帰ったら、ブラウニー、渡せなくなっちゃう。叫びたいことはいっぱいあるのに、うまくことばが出てこなかった。俯いて震えるわたしを見て、さんはにやりと笑う。


「ダイキがあんたと一緒にいたがるわけないでしょ。彼に付きまとわないで」
「ちが、付きまとってなんか、ないっ」
「ハァ?」
「それに、青峰くんは、そんなこと、思って、」
「あんたにダイキのなにがわかるの?!」


 その言葉は、わたしの心臓をぐさりと突き刺した。あんたにダイキのなにがわかるの。なにも、なにもわからない。青峰くんの考えてることなんて、なんにも。あの雨の図書館のことを、青峰くんは一度も口にしなかった。あれから、一度だって、触れられたこともない。あのキスの意味も、いっぱい、いっぱい考えたけれど、これっぽっちもわからなかった。でも、でも、青峰くんはひとりでいたくないのだ。きっと。くるしいのだ。それだけは、間違いじゃない。ぜったいに。だから、わたしは、青峰くんの、そばに、


「うぬぼれてんじゃねーよ!」


 叫んださんは、紙袋を思い切り床に叩きつけた。がさり、と大きな音をたてて、形の崩れたそれは足元に転がる。眼を見開くわたしと、満足そうにくちびるを歪めるさん。


「ほんと、勘違いやばいよね、ストーカーって」


 勝ち誇ったようなその声に、鼻の奥がツンと痛んだ。じわり、と視界が揺れる。だめ、だめ、ここで泣いたら、負け、だ。静かになった教室は、ひそひそ笑いがよく聞こえる。「だいたいさ、急にお菓子作ってくるなんてきもくない?」「釣り合うとおもったのかな、あの青峰と」「うっわ、ちょう自意識過剰」。わざと聞こえるように話すさんのうしろの女の子たちが、にやにやと笑っていた。いやだ、帰りたい。ここにいたくない。ブラウニーももう食べれないし、青峰くんもいない。ここにいる意味がない。帰ろう。俯いたまま、歩き出そうとした、その瞬間。


「あ? なんでこんな静かなんだよ」


 さんのうしろから顔をのぞかせたのは、他でもないそのひと、だった。教室内を見回して、ドアの近くに立ったまんまのわたしを見つけ、眉根を寄せる。「あんたにダイキのなにがわかるの?!」さんの叫び声が、頭の中できこえた。なにも、なにも、わからない。


「……?」


 優しい声。だけど、今は、逢いたくなかったよ、青峰くん。












120513 下西糺