その言葉を聞いたとき、ああ、遂に、此の時が来てしまったのだと思った。すっと冷えた血が、そのまま心臓を凍らせてしまったかのようだった。氷のように冷たくなった指先が微かに震えて、乾いた唇は言葉を紡ぐ事すら不可能と思われた。わたしのそんな様子に、全く気づかないおかあさんは、シンクの下から鍋を取り出し、並々と水を入れてからコンロに乗せる。おかあさんの柔らかい鼻歌と、チッチッという甲高い発火音が、脳内をぐちゃぐちゃにかき混ぜていくようだった。逸る心臓を抑えつけるように、ぎゅっと胸元のリボンを握る。覚悟を、していたはずなのに。この世界に、生まれ直してきてから、自分の居場所がどんな所なのかを、理解した瞬間から、ずっと、覚悟を、していた、はず、なのに。
「ちゃん、あのね、ツっくんにね、家庭教師を頼もうと思うの」
歯車が、まわりだす。
***
前世、というものがあるというのなら、わたしの覚えている光景はまさにそれだろう。
日本の、とある町。平凡な家庭に生まれた平凡なわたしは、と名付けられ、平凡に、それなりに、幸せに暮らしてきた。幼稚園に入り、園内を駆け回り、小学校に入学し、運動会で転んで号泣したり、初恋に心躍らせたり、友達と笑い合い、卒業式では涙を流して別れを告げた。中学校も、高校も、それなりに努力をし、それなりに挫折をし、それなりに苦しんで、めいいっぱい楽しんで、大学生となって、四回目の春。そこで、ぶつりと記憶が途切れている。きっと死んだのだろうと思う。病気になった覚えはないから、多分交通事故か、天災か、そんな所だろう。もしかしたら何かの事件に巻き込まれたのかもしれないが、それを考えると鬱々し気分が落ち込むので考えないようにしている。
そうして、わたしは新しく、今度は、沢田として、この世界に生まれ落ちたのだ。
赤ん坊の頃の記憶は、殆ど、綺麗さっぱり無くなっているが、比較的すんなりと現状を受け入れた、ように思う。新しい両親の元、幸せに暮らしていたのだ。あの事件が、あるまでは。そして、胸を掻きむしられるような苦しみと絶望の最中に、綱吉が生まれたのだった。
呆然と綱吉を見つめるわたしに、おかあさんは「ちゃん、おとうとの綱吉よ。ちゃんは、おねえちゃんになったのよ」そう、優しく、歌うように囁いた。まだうっすらとしか生えていないススキ色の髪に、つぶれたような小さな鼻。ふっくらとした赤い頬、小さな指と、その先のさらに小さな爪。それは、まるで、天使のようだった。絶望に沈むわたしへの、天からの贈り物なのだと。そう思った。そうして、そのつぶらな瞳がわたしをひたと見つめた瞬間、神からの啓示を受けたかのように、唐突にわたしは理解した。わたしのいる世界は、今までの世界ではない。この世界は、実在しなかったはずの世界なのだと。
「ちゃん、名前、呼んであげて」
「なまえ?」
「そう。ツっくん、って。つなよしくんって」
「つ、なよ、し」
おそるおそる指を伸ばすわたしを、おかあさんは微笑みながら見守る。真っ赤に熟れたりんごのような頬にそっと触れると、きゃう、と小さく綱吉は笑った。驚いてぴくりと指先が跳ねる、それすらも楽しそうにけらけらと綱吉は笑う。引っ込めそうになった指は、もっとか細く、やわらかく、熱く、しっとりとしたそれに捕まれてしまった。目を見開いて固まるわたしを、やはり楽しそうに見上げながら笑う綱吉。その小さな指がしっかりと掴んでいるのは、わたしの薬指で。
「あら、ツっくんったら、さっそくおねえちゃんが大好きになったのね」
「だいす、き、」
「そうよ。だって、ツっくんは、ちゃんの、新しい家族だもの」
「あたらしい、かぞく」
「そうよ。おとうさんと、おかあさんと、ちゃんと、ツっくんは、家族なのよ」
汚れた世界も、他者を疑うことも、死にたくなるほどの絶望も、殺したくなるほどの憎悪も、この世の薄暗いもの全てを、まだ知らない、真っ白なこども。非力で、脆弱で、一人では何も出来ない赤んぼうは、それを知ってか知らずか、無垢で、無邪気に、わたしの指先を握って笑っている。ああ、それに、どれだけ、救われたことか。絶望に沈むわたしの前に降りた、一筋の希望の光。見返りなどこれっぽっちも求めてない、まっさらで、まっすぐな、その瞳に、どれだけわたしが救われたのか。この先、何年たっても、一生かかっても、綱吉は、知ることはないだろう。
「おかあさん」
「なあに?」
「、ちゃんと、つなよしの、おねえさんになる」
「あら、すてきだわ」
「おねえさんになって、つなよしを、まもるの」
闇の底からわたしを救ってくれた綱吉を、わたしは、護ると誓ったのだ。わたしの全てをかけて、綱吉を護ると。あのときから、ずっと、わたしは、――――
「――ちゃん? ちゃん? 大丈夫?」
焦ったような声に、はっと顔を上げると、心配そうな顔でわたしを覗き込むおかあさんと目が合った。ふわりといい匂い――晩ご飯はきっと野菜たっぷりのポトフだろう――が鼻をくすぐる。真っ直ぐなその視線から、とっさに目を逸らした。綱吉と瓜二つの透き通るような瞳が、どうも得意じゃない。嘘が通じないような気がする、から。心の奥底に、仕舞い込んで、誰からも見られないように隠しているものを、全て見抜かれてしまいそうな、気がするから。
「ごめん、ぼーっとしてたみたい」
「どこか悪いの? 熱かしら?」
「ううん、昨日考え事してたから寝不足なの。今日は早く寝るね」
「そうなの? 無理しちゃだめよ。風邪、流行ってるんだから」
「うん、大丈夫。……あ、おかあさん、お鍋ふいてる!」
「あらやだ!」
おかあさんが再度台所に向かった隙に、踵を返してリビングを出る。足音を抑えながら階段を上り、自分の部屋へと向かう、その手前。綱吉の部屋の前で、立ち止まった。扉の隙間から、ゲームでもしているのだろう、控えめな爆発音と焦ったようなキャラクターの声が聞こえてくる。きっと、数日もしない内、否、早ければ明日、彼の人生は引っ繰り返って仕舞うのだ。今までの、平凡で、平和で、かけがえのないほど愛おしい日々が、少しずつ、壊されて行くのだ。きっと、彼はマフィアとしての道を選ぶだろう。選ばざるをえないのだ。そうして、優しい彼はきっと、苦しみ藻掻きながらも、歩みを止めることはない。だからこそ、
「姉さん?」
薄暗い廊下に差す、一筋の光。ガチャリと開いた扉の先に、怪訝そうな、困ったような表情の綱吉。胸に渦巻いていた、纏わり付くようなそれを押し隠して、笑みを零す。「綱吉、」暗闇に居るわたしには、その光は眩しくて、でも、その光がなければ、前に進むことは出来なくて。
「何してるんだよ、そんなところで」
「ううん、ゲームやってるの? わたしもやろうかな」
「姉さんが? 珍しい」
「たまにはいいでしょう」
「ふふ、姉さん弱いのに」
「手加減してよね」
するわけないだろ。小さく笑いながら部屋に招き入れてくれる綱吉は、きっと気づいていないだろう。わたしの気持ちも、自分の現状も、わたし達の未来のことも、何もかも。でも、それでも構わない。わたしは決めたのだ。あの時、あの、小さくて、やわらかくて、熱い指先が、しっかりとわたしの指を掴んだあの時から。貴方はわたしの光だから、どれ程険しい道を選んだとしても、貴方の歩む道が、照らされたわたしの道だから。テレビ画面を見つめるその横顔に、小さく呟いた。
「わたしが、護るから」