「ただいまー」 施錠音のあと、間延びした声がリヴィングまで届いた。雑誌から目を離さずに、こちらも間延びしたおかえり、を返す。廊下の電気がパチリと消えて、ガラス戸が開けられる。部屋の空気が動いて、前髪がふわりと揺れた。 「あれ、お母さんは?」 「買い物」 「ふーん」 俺の寝転がってる黒いソファ、その足元に鞄を置いてから、はふらりと台所へ消えてしまった。雑誌からわずかに目線をあげて、ダイニングキッチンを見遣る。カウンターの向こうでがさがさと影が動いていた。冷蔵庫を開ける音。ひたひたという足音が聞こえてきたので、俺はまた視線を雑誌へと戻した。もちろん、先程からページはめくられていない。 「涼太もアイス食べる?」 棒アイスを振りながら、姉は俺の顔を覗き込んだ。「いらない」「そう」俺の返事に淡泊に頷いてから、はフローリングへと坐り込む。びり、袋を破いてから、ゴミ箱を抱え込んで、ゴミを捨てる。バニラアイスは咥えて、自由になった両手で爪やすりを掴む。桜貝のような小さな爪が、やすりによって整えられていくのを、ただ見つめていた。爪が割れないようにと爪切りではなく爪やすりを買ってきた日から、姉はずっとやすりで爪を整えているのだった。小刻みに何度も動かされるそれ。咥えっぱなしのアイスは、溶けているにもかかわらず、器用に舐めとられる。俺が買った服がアイスで汚れないのはいいのだが、ちろりと覗く赤い舌にどうしても意識が向かってしまう。あっという間に白いそれは全部食べられてしまい、一度強く噛まれた木の棒はゴミ箱へと落とされた。 「別れた」 「……え?」 「だから、別れたの」 彼氏と。 リズムを崩さずに、はやすりを動かし続ける。疼きを押さえこむのに意識が向いていたため、言葉を理解するのに時間がかかったが、それが脳に届いた瞬間、俺は視線を雑誌へと戻した。釣り上がる唇は、きっと彼女には見えていない。 「へぇ。結構長かった?」 「うん、二週間。最長記録だね」 呟くようにそう述べられて、思わず眉間に皺が寄った。二週間。長すぎる。初動が遅いと全てが後手に回るという事実を、初めて体感した。目を光らせていたけれども、まさか高校の、しかもクラスも違う男と付き合うとは思わないだろう、普通。大学に入学したからって、そっちのほうに気を回しすぎたな。反省点をつらつらと脳内で挙げていく。悪い虫がつかないようにと普段から動いているけれど、一度蟲に食い付かれると、それを引きはがすのにはどうやっても苦労する。今回だって、俺のカワイイあの子が頑張ってくれなければ、もっと時間がかかっていたはずなのだ。 「またねーちゃんが振られたの?」 「そうよ。あっちから告白してきたのに、意味わかんない」 「ふうん」 「頼むから別れてくれ、って言われちゃた。後生だからって」 意味わからないでしょ? ふっと指先に息を吹きかけるに、胸中で謝罪する。ごめん、ねーちゃん。今回は、俺が未然に防げなかったことと、食い付いてきた蟲がちょっと厄介だったから、そんな強硬手段に出ることになっちゃったんだよ、ね。でも、さすが、俺の一番のファンを豪語するだけある。彼女は目的のためなら手段を厭わないから、すばらしいな。俺のカワイイあの子を頭に思い浮かべて、ふ、と笑みを漏らした。たまには俺からも奉仕してあげようかな。躰ならいっぱいあげられるよ。心はあげないけどね。 「髪の毛」 「え?」 「黒の方が似合ってたって言われちゃった」 ぽつりとそう述べるに、一瞬、目の前が真っ白になる。次の瞬間、ぐらりと脳味噌が沸騰したかのように熱くなった。ぎり、と彼女に気付かれないように奥歯を噛みしめる。糞が。なんだ、あの男。なんだというんだ。俺の目を掻い潜って、俺たちの間に滑り込んでおいて、言うに事欠いて、それか? ふざけるな。震える拳を、強く握った。黒髪の方が似合う、だと? そんなもの、認めるものか。のことは、俺が、この俺が、一番理解しているのだ。どんな髪が、服が、爪先が。のことは、俺が、 「絶対、今の方が、似合ってる」 吐き出すように、そう述べた。言葉は刺々しかったが、はなんの疑問も抱かなかったらしい。そうかな? 首を傾げた彼女の、カナリヤ色の髪が揺れる。ふわりと漂う香水に、抱きつきたい衝動を押さえこんだ。 「俺とおんなじだし」 「ん、そだね。涼太とおんなじだね」 あたしも、今の色の方が好き。 ふふ、とが笑うので、煮えたぎるような熱は瞬時に冷めた。ああ、よかった。これで、やっとねーちゃんは、俺のもとに帰って来た。それが嬉しくて、目の前の長い髪をさらさらと撫でる。「なあに?」「なんでもない」柔らかい声に、笑みがこぼれた。髪の色だけで、彼女を縛れるだなんて思っていない。これっぽっちも。髪だけじゃたりない。服だけでも足りない。香水と、グロスと、靴と、鞄と。全部、ぜんぶ俺のものにしないと、気が済まない。 「あ、ねーちゃん」 「なに?」 「土曜日、午後部活オフなんだけど、渋谷行かない?」 手にしていた爪やすりをが置いたので、それに合わせるように俺も雑誌をぱたんと閉じた。少しだけ体を起こして、彼女の首に腕を巻きつける。 「ねーちゃんの好きなブランド、新作出したよ」 「ほんと? あ、そういえば香水もあたらしいの欲しいんだよね」 「俺が選ぼうか?」 「涼太、センスいいからね」 たのしみ。そう言って振り向いたねーちゃんは、にっこりとほころぶように笑った。釣られて俺も、笑みを零す。ねーちゃん、ねーちゃん。苦しくないように、優しく抱きしめてから、顔を首筋に埋めた。きらり、流れるように奇麗な髪が、光を反射した。 俺の好きな髪の色 俺の好きなグロスの色 俺の好きな服 俺の好きな靴 俺の好きな香水 俺の好きな、だいすきな、ねーちゃん 甘ったるい蜂蜜のように、でろりと蕩けた毎日。 ああ、こんな日々が、死ぬまで続けばいい。 親愛なるうれいちゃんへ!! うれいちゃんがカワイイあの子の小説を書いてくれたよ!! 120610 下西 糺 |