透明な世界


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10
うだるような暑さだった。ただ立っているだけなのに後から後から汗が噴出してくる。じりじりと太陽に照り付けられて、目の前の景色が霞むようだった。くらり。朝から発症している貧血は、その威力を弱める予定はなさそうだ。体育、休めばよかったかな。バレーは好きだけど、こんな状態でやれるはずがない。とりあえず体育科の安田先生に見学を申し出て、それで、

さんっ!!!」

鋭い叫ぶような声がして、思わず振り向いた。逆光のなかで黒い物体が近づいてくる。あぶない!!そういわれたのだと認識したころには時すでに遅し、

がつん、という衝撃とともに体が傾くのがわかった。ああ、やばい。そのまま地面に衝突する。思考が闇に呑まれるその瞬間、声が聞こえた気がした。 、ッ!!」 きいているだけで何故か泣き出してしまいそうなそれ。
酷く懐かしいようなそれさえ、闇に沈んで、消えた。




※※※




ぱちり。見つめる先には白い天井があった。やわらかい風が吹いて、窓際のカーテンを揺らしている。ツンと鼻をつくような薬品のにおい。顔を横に向けると、二人と目が合った。

「あ、さん。起きた?」
「頭大丈夫?ごめんね、私バレー下手で…。」
「え、あ、大丈夫!大丈夫だからっ!」

おろおろする加地さんを見ていられなくなって、あわててぶんぶんと手を振った。心配そうにこちらを覗いてくる加地さんにぎこちない笑顔を返す。どうやら、わたしは加地さんの流れ弾に当たったらしい。頭に意識を向けると、じいんと側頭部が痛んだ。でも、がまんするほどでもない。ずっと二人が付き添っててくれたのだろうか。「ありがとう。」といってもう一度頬笑むと、急に内田さんがわたしの顔を覗き込んできた。驚いて思わず体を引いてしまう。

さんってさ、なんか目おっきくない?」
「えっ?」
「…あ、ほんとだ。眼鏡かけてないと印象違うねー」
「うんうん。ちょっとまじめちゃんかなって思ってたんだけど」
「まじめ?わたしが?」

真面目…ではないと思うけど。ぽつりともらしたわたしに内田さんは「まじめでしょー」とケラケラと笑った。つられてわたしも笑みを零す。しかし、次の言葉に、心臓が凍りついたかと思った。

さんって、眼鏡ないほうが絶対いいと思うよ。」
「…えっ?」

ずきり。痛んだのは心臓なのか、それとも。

「ねえ、加地さん」
「なに?」
「誰か、わたしの名前呼んだ?ボールがぶつかったときに。」

聞こえた気がしたのだ。わたしの名前を呼ぶ声が。泣き出しそうな声で、「、」と、

?」
「うーん…私は言ってないよ?っていうかさんってって名前だったの?しらなかった」

いい名前だね。微笑んだ加地さんに返した返事はきっと上の空だっただろう。耳にこびりついて離れないその声が、わたしの心臓を震わせている気がした。

「にしてもさ、ってほんと眼鏡の時と印象違うよね」
「え?」
「コンタクトにしちゃえば?」

わたしが何か言うのをさえぎるように、学校中にチャイムが鳴り響く。あわてて内田さんと加地さんは立ち上がった。

「わ、鳴っちゃった!」
「次の授業、休んでなよ!先生には言っとくから」

ばいばい、と手を振って二人は廊下に消えていった。残されたわたしは眼鏡を手にとって、またベッドに寝転がった。黒渕のそれは、保健室に入ってきた光を反射してきらきらと光る。 「コンタクトとか持ってねーのかよ」 ふと、前にも似たようなことを言われた気がした。いつ言われたのか、誰に言われたのか。何も思い出せはしなかったけれど。




※※※




「君がさん?」
「は、はい」

じろじろと見られて思わず声が裏返った。よっぽどおかしかったのか、ツボに入ったらしい店長はくくっと笑ってから「緊張しなくていいから。」とわたしの肩を叩いた。

「はじめてのアルバイトでさー、緊張するのはわかるけど、そんなに力入れなくても大丈夫だから」

たかがコンビニだしね。ひとしきり笑ってから、店長はわたしに真新しい制服を差し出した。今店長がきているものと全く同じらしいそれは、妙にわたしの手に馴染む。

「とりあえず、着替えてきて。ロッカーは使ってもいいけど、私物はきちんと持ち帰ること。」
「は、い。」

ぎこちないわたしにまたひとつ笑いをこぼしてから、店長はレジの方へと戻ってしまった。はあ。思わず息をつく。いけない、最初からこんな調子じゃだめだ。切り替えるように頭を振って、目の前のSTAFF ONLYの扉を押す。コンタクトを買うために、頑張ると決めたんだ。働く前からびびってちゃ、だめ。気合いを入れなおして顔をあげて、

「え?」

素っ頓狂は声は決して広くはない部屋に消える。ぱちぱちとまばたきをすると、目の前の男の人は少しだけ目を細めた。触れれば切れてしまいそうなほど鋭い真黒な瞳。隻眼のそれに吸い寄せられるかのようだった。形の良い唇が開かれる。

「見ねェ顔だな。新入りか?」
「え、あ、は、はい。今日から入ったです。」

ふうん。興味なさそうな声とは裏腹に、男の人はわたしから一寸も目を離さない。ぎしり。パイプ椅子の音とともに立ち上がったその人は、わたしの目の前で立ち止まった。それなりに身長差があるせいか、見下ろすようにしてわたしを観察している。いっそ不躾な筈のその視線を、わたしはなぜか知っている気がした。切れ長の右目がわたしをみつめる。と、次の瞬間、視界がぼやける。

「これ、あんま度入ってねぇだろ。」
「な、か、かえしてください!!」

わたしの手の届かない所に眼鏡を持って行って、蛍光灯の光に翳しながら男の人はうっそりと呟いた。反射的に手を伸ばしても、ひょいと避けられる。返してください!半ば叫ぶように訴えると、チラと目線だけをこちらによこした。と思ったら、ぐい、と顔を近づけられた。突然のことに、息をするのも忘れそうだった。曇りのないその瞳が、わたしをとらえて離さない。風に運ばれてきた香水に、思わず体が硬直する。至近距離でそれを見てから、名前も知らない男の人は、ふわり、と、ほほ笑んだ。

「お前、眼鏡かけてねェ方が可愛いぜ」

どくり、心臓が脈打つように震えた。涙腺が緩んで、今にも涙が零れ出しそうだった。嗚呼、胸の鼓動が、わたしのなかのなにかが、この人を覚えている。

「あなたの、」
「ん?」
「あなたの名前をおしえてくれますか?」

不意打ちをくらったように目を丸くしてから、名前も知らない男の人はまたやわらかく微笑んだ。


「俺の名前は――――――。」








Fin____


完結いたしました。 ご愛読ありがとうございます。



090917 下西 糺





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