僕がきみの手を
握り返したのは、
「よーくん、よーくん」
ぱちり、目をあけると見慣れた天井が飛び込んできた。さらに瞬きを繰り返して、やっと現状を理解する。ここは俺の部屋だ。 「よーくん」 耳の奥であいつの声がする。ああ、
「夢、か……」
なつかしい、夢を見た。
***
「よーくん、よーくん」
「うるせーな、だまってついてこいよ」
口を動かすくらいなら足を動かしやがれ。さすがにその言葉はのみこんだが、口から漏れたのは軽い舌打ちだった。いつもそうだ。足が遅いのか、ただ単にトロいだけなのか。俺とがならんで歩くことなどは、数えるくらいしかなかった。いつもは俺の一歩後ろを、一所懸命かけてくる。ただでさえ俺に付いてくるのが精一杯なくせに、注意力が散漫なのか、興味のひかれたものへ、あっちへふらり、こっちへふらり。そうして、あやうくはぐれる前に俺がの首根っこをひっつかんで連れ戻す、というのがいつものスタイルだった。思えば、よくもまあ律儀に面倒を見ていたものだ。今の自分だったならば、迷わず首輪をつけてリードを握っていたはずだ。そのほうが楽でいい。ふらふらと歩くに何度いらだちを覚えたことか。それでも、よーくんよーくんと舌足らずな甘ったるい口調は嫌いではなかった。
「よーくん、きょうはどこ、いくの?」
「秘密」
あの日はそう、学校帰り、ランドセルをおいてすぐに出かけたのだった。六年生のグループが、少し離れた隣町に、廃材置き場があって、そこで遊ぶのが楽しいと零していたのを聞いたのだ。ごっこ遊びなんぞに興味はなかったが、もしかしたらなにかいいものが落ちているかもしれない。見に行く価値はあるだろう。思い立ったらすぐ実行。靴も脱がず、ランドセルを玄関に放り出して、俺は家を飛び出した。そして、隣の家の前で、大声で彼を呼ぶ。そうすると、ふわふわと赤毛を靡かせながら、にへらと笑ったが扉から顔を出すのだった。朝家を出てから、学校の間中、そして帰り道、帰宅後、夕飯まで。俺とが離れている時など、眠るとき以外に果たしてあっただろうか? 夕食時ですら、家の食卓に招待されることが多かった。俺の両親は留守のことが殆どだったから、の両親はよく俺を家に呼んでいた。泊まることもしばしばあった。俺にとってという家は、ある意味で、自分自身の家よりも「家庭」であった。そんな俺たちだったから、廃材置き場にがついてくることも必然だった。
「ねぇよーくん、まだつかないの?」
「まだだな」
「うー、うー」
が不満そうな音を漏らした。歩きはじめてからもう30分はたっていたかもしれない。疲れはじめたのか、脹れっ面のの歩みがだんだん遅くなる。ふわりふわりと揺れ動くアホ毛が視界から消えたが、いつものことだったので無視した。音の外れたCMソングが、後ろから聞こえてくる。目の前の信号が赤になったので、俺は歩みを止めた。周りの流れも止まる。ちょうど、近くの高校も授業が終わったらしい。周りは黒の学ランや、濃紺のブレザーであふれていた。右にいた女子学生に鞄で押されて、思わず舌打ちを漏らす。
「オイ、、人が増えてきたから、」
はぐれるなよ。は、言葉にならなかった。振り返っても、あのふわふわとしたアホ毛が見当たらない。ハァ? 信じられなくてぱちりとひとつ瞬きをした。……?
「おい、?」
焦ったような声が零れると同時に、目の前の信号が青になる。周りの景色が一斉に動き出す中で、俺はその場を動けなかった。前に進むサラリーマンのような男と思い切りぶつかって、舌打ちを零されたが、それを気にしている余裕などない。どくり、と心臓が厭に脈打った。頭の中にあるのは、ひとつの単語。
「あンの馬鹿! 糞アホ毛が!」
唸るように叫んでから走り出した。迷子だなんて、冗談じゃねぇよ。
***
「は、ぁっ、はぁっ、」
ぽたりと汗が顎を伝って落ちた。立ち止まり、膝に手を突いて息を整えようとするが、無駄に終わる。太陽は西の空を赤く赤く染めていて、それがなんだか不気味で。ビルの間に沈みゆく太陽にどくりどくりと心拍数が上がる。厭な、色だった。頭を過るのは、ともすれば心臓が止まってしまうのではないかという、結末。もし、もし、が、このまま、
(ち、くしょう)
ふるふると頭を振ってその考えを脳内から押し出した。そんなことを考えている時間があったら、を探して走り回ったほうがいい。そう結論付けて、また走り出そうと、顔を上げた時だった。
「……っ、!!」
叫ぶと、それに呼応するように赤毛が揺れた。噴水のしぶきが西日に反射して、のまわりだけきらきらと光っているのがまるで場違いだ。俺を視界に入れたが、はじかれたように立ち上がり、よたよたと、それでも一所懸命走りながら、俺のほうに駆け寄ってきた。くしゃりと歪められた顔。どん、という衝撃。俺はしっかりとを抱きとめた。
「こ、ん、の! 馬鹿! 糞馬鹿アホ毛が!」
「うううよーくん、よーくん、」
えぐえぐとが俺の肩口に顔を埋める。ずびび、と鼻をすする音がした。
「よ、よーぐん、ぼぐ、泣かなかっだよ」
「おもっきし泣いてんじゃねーか」
「ごれ、ぢがう、」
「違くねーよ。オラ、鼻かめ、鼻」
が鼻をかんでいる隙に、目元の涙を乱暴に拭ってやる。少し強くこすりすぎたせいか、赤くなってしまった。まだぐずぐずと鼻をならしているの手を、乱暴に掴む。
「ちゃんとついてこねーから迷子なんかになるんだ。帰るぞ」
繋いだ手を、引っ張るようにして歩きだした。少し湿ったの手に、ガラじゃないことをしていると再度自覚する。かぁっと、頬が熱くなった。
「よーくん、よーくん」
「あンだよ」
放さないでね。
ぎゅ、と力を込められる。心臓を鷲掴みされたかのような衝撃が、身体を駆け巡った。「よーくん、」俺を呼ぶの声が心地よい。あの噴水公園で、は、俺を、俺だけを、待っていた。その事実が、ぐらりと俺の心を揺らす。
「仕方ねぇな」 放さねェよ。
ぎゅ、と手を握り返したら、俺の後ろでが、笑った、気がした。
この手を握るのは、一生、俺であればいい。
誰にも渡したくなかったからで、
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110722 下西 糺