僕がきみの手を

    握り返したのは、




 意識は唐突に浮上した。頭の中が混乱していて、ぱちりぱちりと瞬きをしたが、脳内が整理されるような傾向は少しもみられない。見慣れた自室、もう日は沈んだのか、カーテンのむこうから日は差し込んでいなかった。窓は閉め切られているらしく、すこし蒸し暑い。否、空気はそれほど熱くなかったが、自身がまるで熱を発しているかのように火照っている。視線を泳がせた先に、見慣れた赤毛を見つけて、ほぼ無意識に名前を呼んだ。


「っう、」
「……よーいち?」


 正しくは、名前を呼ぼうとした、だった。唇の隙間から洩れたのは名前の名残すらない呻き声。それでも、それはの耳に届いたらしい。ふわりとアホ毛がたなびいて、驚いたような顔のと目があった。


「起きたん?」
「……じ、かん」
「9時。……6時間以上は寝てたぞ。爆睡」
「……あー」


 寝がえりを打って天井を見上げたので、心配そうな表情のは視界から消えた。鈍い頭痛と鋭い喉の痛みに思わず目を瞑る。ちくしょう、風邪なんてガラじゃねぇよ。


「ほら、妖一。熱計れよ」
「んー」


 返事をするのさえ億劫だ。酷く緩慢な動作で差し出された温度計を受け取り、腋に挟んだ。重い躰に舌打ちするも、頭への鈍痛にすぐに意識が移る。熱いのか寒いのかわからないまま布団をかけなおすと、汗でぐっしょりになったTシャツが肌に張り付いた。……酷く不快だ。眉根を寄せていたら、それに気づいたらしいが「着替えるだろ」と言って替えの服をタンスから取り出す。勝手知ったる他人の家とはこのことだろう。


「おなかは? なんか食う?」
「……いい」
「でも食わねーと薬飲めなくね」
「……いら、ねェ」


 さらに顔を歪めれば、苦笑したようにが目尻を下げる。俺が薬嫌いなのを知っているのは後にも先にもこいつだけだろう。ポカリを取りに行くと告げた、閉じられた部屋の扉を見やりながらそう思った。はあ、と溜息を零そうとして、一瞬ためらってから口を閉じた。喉に負担はかけたくない。これほどまでに体調を崩したのは何年振りだろうか。働かない頭を回転させようとしたが、労力とそれに対する見返りにあまりにも差がありすぎたためさっさと思考を放棄する。目を瞑ったら、ぐるぐると世界が回るようだった。……気持ちわりィ。


「いくつだった?」
「まだ」


 片手にポカリ、反対の手にアイスノンと冷えピタを抱えたは、がさりとそれらを机の上に下ろした。どれも自宅にはなかったものだから、きっとあいつが買ってきたのだろう。そういえば額に違和感がある。いつ冷えピタを貼られたのか、全く覚えがなかった。枕代わりにしているもうひとつのアイスノンは、すでに冷気を微塵も残してはいない。


 ピピピピ ピピピピ


「……ん」
「んあー八度二分なー。ちょっと下がったな」


 昼前は五分あったからな。独り言ともとれるようなその声が、酷く心地よかった。の手を借りて着替えを済ませ、新しいアイスノンを頭の下に敷く。冷えピタを丸めてゴミ箱へ投げれば、べた付いていたのがいけなかったのか、縁にあたって床へと落ちた。


「ッチ、」
「ほら、いいから寝てろって」


 掛け布団を口元までかけられたので、もご、という意味のない音が漏れた。それにニヤリとわらってから、は自分の携帯を開く。壁時計は10時を指していた。


「か、えらなくて、い、のか」


 掠れてうまく声がでない。おー、という返事をしながら、は携帯でメールを作成しているようだった。カシカシと右手が素早く動かされる。と、すぐにそれは閉じられた。ぽい、とは携帯を自分の鞄へと放り投げた。


「今母さんにメールしといたからたぶん大丈夫」


 だからお前は寝てろ。な?
 気遣うように撫でるその手に、酷く安心する。目を瞑れば、ふらふらと揺れる世界。平衡感覚が完全に失われているようだ。


「ポカリ、仕舞ってくる」


 やさしい声でそうつぶやいた。俺は、無意識に、その服の裾を掴んでいた。


「っ、え?」
「……、くな」


 掠れ切って、ともすれば消え入りそうな声。驚いたような表情で振り返ると目を合わせるのが苦痛で、視線は彷徨ってから部屋の隅へと落ち着いた。ああ、風邪ってだけでもガラじゃねぇのに、なんだこの始末は。この間の夢のせいか?


「妖一?」
「う、るせ」


 手を離したら、観念したのかはベッドのわきに胡坐を掻いた。必然的に顔が近くなる。ちらりと視線を走らせると、ニヤリ笑いのと目があった。…………屈辱だ。


「そーかそーか。さびしいんだな? 心細いんだろ? 仕方ねェからこのサマ、妖一くんが眠りに付くまで傍にいてしんぜよう」
「…………アホ」
「アホとはなんだ馬鹿が!」
「フン」


 服の裾を掴んでいた手を、がしりと掴まれる。突然のことに、躰が撥ねた。それに気付かなかったのであろう、はジッと互いの手を見つめる。


「いつもの逆だな」
「……あ、?」
「いつもは俺が握ってもらってるもんな」


 にへらと笑いながら、ぎゅ、と手を握るものだから、また躰が撥ねるかと思った。どくどくと心臓が耳元で呻っているのは、風邪と関係があるのだろうか。


、」
「ん、なん?」


 瞼を閉じて、返事の代わりにぎゅ、と指先に力を込めた。絡まっているの指が、ひんやりとしていて心地良い。もし。もし、俺がこの胸の内の感情をに吐露したら、こいつはどうするのだろうか。今のように、今までのように、俺の傍にいてくれるのだろうか。また、俺の手を握ってくれるのだろうか。すこし掠れたその声で、妖一、と、そう呼んでくれるのだろうか。


「おやすみ、妖一」


 あまりにも優しくが呟くものだから、目頭が熱くなった。力の入らない指を、必死に絡める。なァ、。たのむから、たのむから、俺から離れないで。





不安を消したかったからで、















110907 下西 糺


乙女街道まっしぐら蛭魔。